札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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地域医療総合医学講座のブログです。 「地域こそが最先端!!」をキーワードに北海道の地域医療と医学教育を柱に日々取り組んでいます。

2011年11月4日金曜日

南三陸震災支援を終えて

札幌医科大学の東日本大震災支援の一環として、2011年11月24日から31日まで宮城県本吉郡にある南三陸町へ診療支援に派遣されました。今は帰路の飛行機の中でこの文章を書いています。今回の派遣について私の私見も交えながら報告いたします。

南三陸町は宮城県の北部、牡鹿半島の北に位置しており、今回の震災でも住民約17,000人のうち、実に南三陸町は震災で死者564人、行方不明664人と壊滅的な被害を受け、職員も39人が亡くなったという甚大な被害を受けました。南三陸町にある公立志津川病院には津波が4階の高さまで襲い、多数の患者さんやスタッフが犠牲になりました。テレビ報道でも震災の象徴的な施設としてくりかえし放映され、有名になりました。

私が南三陸町で診療支援するのは今回で二度目になります。前回は札幌医大への入職前に前任地の有給休暇を利用し個人でNGOを通じて医療ボランティアに参加しました。今回の大学からの派遣が南三陸町になったのは偶然でしたが、以前に見知った現地スタッフも多く、個人的には感慨深いものでした。

病院施設が津波で甚大な被害を受けたため、町内ベイサイドアリーナ内にイスラエルから譲渡を受けた医療設備を用いて設営された仮設診療所で一次診療を行い、6月から約30km離れた内陸の登米市立よねやま診療所内に病棟機能を移転再開し入院および検査を行っています。

公立志津川病院は常勤スタッフDr7名(整形1、外科2、内科4)に私のような各地からの応援Drが1名ないし2名が加わっています。また診療所には各科専門医が日替わりで診療に来られています。病棟側のDrは常時3〜4人で看護師30人とともに入院病床39床(一般27床、療養12床)を受け持ちます。

医師数は病院規模の比して充実しているように感じられますが、常勤医には医師会派遣や震災前に町内で開業されていたDrなど期限付きで勤務されておられたり、診療所と病棟で離れており二重に当直業務がある事を考慮するとまだまだ厳しいというのが実情です。

24日に着任してからの業務はもっぱら米山診療所内の公立志津川病院で入院病棟を受け持ちました。内科として入院患者は急性期として12〜15人おり自治医科大出身の5年目Drと共に診療にあたりました。

患者さんは80代以上の高齢で複数の疾患を抱えている方が多く疾患も非常にバラエティに富んでいました。診断、治療、検査、その後のマネジメントまで、過去の地域病院勤務を思い出しながらの毎日でした。基本的に常勤医のサポートですので病院総合医(ホスピタリスト)として病棟業務に専念しました。手前味噌ですがこうした小規模病院における総合医の有用性を実感しました。

病院は6月に再開し業務的にも落ち着いた感がありスタッフも非常に明るく、キビキビと働いていました。皆さん優秀で素晴らしい方達でしたが、私が個人的に感じたのは、Nsの患者さんへの対応、Dr同士の繋がり、事務の方の仕事、その全てにおいて病院全体が何か一つの気迫のようなものに満たされている事でした。例えて言うなら、彼らにとって患者さんは守るべき故郷の一部であり、同僚は共に死線を越えた戦友であり、病院は再建の日まで絶やす事のできない希望の砦という事でしょう。

休憩時間などに多くのスタッフから震災の日の思いや出来事などを聞かせて頂きました。肉親をなくされた人、病院で津波に遭遇した人、町外にいて津波を免れた人、財産を失った人あるいは残った人、みなそれぞれに震災への思いを胸の奥に秘めておられました。なかにはPTSDの症状のある人もおられましたが、ケアは十分とは言えず、現在の仕事への使命感と時の過ぎ行く中で癒やして行く他はなく、まだまだ長い年月が必要でしょう。

入院患者さんは後期高齢者が中心で特に慢性疾患のコントロールは震災を機に悪化している方が多かったと思います。退院やリハビリにあたっても、若いご家族をなくされた人、家を失い仮設住宅に入られている人などは自宅へと戻る事ができずに施設入所を選択される方もおられました。津波に呑まれギリギリで命拾いした患者さん等は、非典型的なめまい感などで入院されている方もおられました。PTSDが主因と思われ、検査では異常なく入院後軽快しましたが、人生経験を積み重ねた高齢者ではPTSDは典型的な症状を来さないのかもしれません。

今回の震災前は、公立志津川病院はいわゆる東北の小規模病院で、勤務するスタッフもごく普通の人々でありました。被災した患者さんの多くは着のみ着のまま避難したため、自らの疾患や処方さえも満足に分かりませんでした。無意識に信じていた今日と同じ明日は、未曾有の災害が消し去り、皆が過酷な運命の中に投げ出されてしまいました。今まで地域医療において無形に支えられていたものが無くなり、初めて気付くものがありました。
 

医療の復興はいつが終わりと言うことは無く、特に我々のような総合医・プライマリケア医は現地で最も必要とされています。今こそ継続的に支援し同じ地域医療に携わるものとして連帯を示すべきであると考えます。
 
今回の東日本大震災は、かねて医療過疎であった地域をさらに自然災害が襲うという極限の地域医療を出現させました。しかし同様の事は、その規模のいかんに関わらず、明日にも日本全国で起こり得る事です。震災の犠牲者の為にも全国民が自らのこととして共有し、将来について考え、行動する事が必要です。すべては「お互いさま」の心と考えます。

東日本大震災では全国から非常に多くの医療関係者やボランティアが被災地に入り、支援と同時に災害医療と地域医療の立て直しという得難い経験をしました。これからはその経験を持ち帰り、それぞれの地域において普段から医療スタッフの教育や住民への健康意識や受療行動の啓発が重要になると考えます。

まとめとなりますが、今回の経験を一言で言えば、「一所懸命」。私も将来再び地域医療に赴く際には心に留め置きたいと思います。

最後に今回の派遣期間中に御協力いただいた地域医療総合医学講座の山本教授、同僚の河本助教、武田助教、松浦助教、飴田秘書ら皆様ほか札幌医科大学の皆様に謹んで感謝を述べたいと思います。(助教 稲熊 良仁)