札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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地域医療総合医学講座のブログです。 「地域こそが最先端!!」をキーワードに北海道の地域医療と医学教育を柱に日々取り組んでいます。

2009年12月24日木曜日

何かを失くすこと

 

ある日の夕刻、携帯電話を落とした。その日の朝も、教室内に置き忘れていたのに家に電話して探してもらったり、自分の部屋をあちこち探したりと大騒ぎをしたばかりである。日中いくつかの会議に出席し、飛行機に間に合うために慌ててタクシーで駅に向かった。タクシーを降りてポケットを探ってはじめて紛失に気付いた。実は札幌に赴任直後、財布を三度落としている。映画館、列車内であったが不思議と誰かが届けてくれた。とはいえその後、妻のアイデアで小さな肩掛バッグを購入してからは、財布を落とすことがなくなった。しかしながら携帯電話はそのバッグに入れないでズボンのポケットに入れて持ち歩いているためか、よく落とす。今回は結局、タクシー会社が届けてくれた。出張先に見つかったと連絡が届くまでの間、大変不安であったし、電話をかけてくともすぐかけられず不便この上なかった。

 何かを失くしてはじめてそのことの大切さ・便利さに気付くことがある。ソケイヘルニアになってはじめて普通に歩けることの大切さを知った。

 大学病院は研修医が来なくなってその大切さを知った。地域は医師が来なくなってその大切さを知った。いつも傍にあるとその大切さに気付かない。健康に気遣った夕食を家族のために作ってくれる妻。大学での診療や教室の運営に陰で支えてくれる教室員や秘書。

何かを失う前に、その大切さを思いやる感性を磨かなければならない。落し物をした日の出張先でそんなことを考えた。

(山本和利)

 

2009年12月21日月曜日

研究取材:弓削メディカルクリニック

研究取材の第3弾である。

今回の取材地は滋賀県にある弓削メディカルクリニック。香ばしいうなぎの匂いがあちらこちらでする浜松を朝7時に出発する。新幹線を使って米原経由で近江八幡駅へ。

各駅停車の電車の窓に映る瓦屋根や寺社仏閣が懐かしい。9時、弓削メディカルクリニックに到着。元産婦人科病院という2階建ての施設である。ナース兼ケアマネージャー兼経営者の雨森先生の奥様に施設を案内していただく。一階が診療室で、2階が会議室と研修医等の短期住居として利用されている。現在常勤医師が4名で、外来診療、在宅ケアを中心に活動しているが、来年度の医師確保が課題のようだ。その後、雨森先生の予約外来を見学する。関西弁の挨拶で始まり和やかに診療が進んでゆく。電子カルテをフル活動させている。時系列にして印刷した検査データを患者さんに手渡しながらユーモアをまじえて説明してゆく。この電子カルテへのアクセスは顔面認証だそうだ。繁忙時診療終了後に使用するディクテーション入力であるが、電子カルテに先生が言ったと通りに音声を吹き込むことで正しい漢字に変換されてスラスラと入力にされてゆく。大学よりも開業医の先生方のほうがはるかに医療の電子化にすばやく対応している。

研修医の先生にインタービュ。臓器専門医志望である2年目研修医。診療所の実態が把握できるし、医師の紹介状の利用の仕方、家族背景や住宅状況の把握など、大学病院では経験できないことをたくさん学んだと、2週間という短期間であっても好評であったようだ。その後、その日勤務の医師の方々と雑談をしながら昼食をいただく。雨森先生に近江八幡駅まで送っていただき、新大阪経由で曇天に変わった関西空港から雪降る札幌へ戻った。

(山本和利)

 

2009年12月16日水曜日

研究取材:亀田ファミリークリニック館山


 

「地域医療現場で研修医は何を学ぶか」という研究取材の第2弾である。

今回の取材地は千葉県南部の亀田ファミリークリニック館山。宿泊地館山へは、東京駅前から夜間のハイウェーバスで入った。乗客は2席を1名で座り、言葉少なく眠っている者が多い。イルミネーションの中を走り、夜の東京湾を越えての道のりは思ったよりも短かった。井上陽水の「あー、夜のバスが・・・」というメロディが突然浮かんできた。館山駅前の予約したホテルは素泊まりであり、部屋は広いが薄暗くランケーブルが設置されていないのが辛い。と思っていたら出発直前にランケーブルが設置されていることを発見。

朝、8時半にタクシーで亀田ファミリークリニック館山へ。海辺の県道脇に大きな看板が目立つ巨大な建物に到着する。早速、医師、訪問看護師、ケアマネージャー、訪問PT,OT総勢20数名で行う朝の申し送りに、見学希望の初期研修医1名と一緒に参加させてもらう。電子カルテを見ながらの報告が各部署からなされてゆく。皆さん私服なのでどの人がどの職種なのか区別がつかない。医師の内訳は指導医5名、研修医11名で運営されているそうだ。たくさんの医師がいて羨ましく思えるが、家庭医プログラムが全国にできるようになり、ここでも医師、研修医の確保が簡単ではなくなってきているらしい。

岡田院長に院内を案内していただく。この施設は、クリニック、訪問看護ステーション、リハビリ室、歯科、透析室の5つの部署で構成されている。もともとはスーパーマーケットであったものを医療施設に改築し、門前薬局もマクドナルドのドライブスルーであったのだと。広々としたスペースの中で、外来診療、リハビリや透析が行われている。それでもまだ利用されていないスペースがかなりあり、将来の拡張用にリザーブしてあるのだそうだ。最近ではスポーツ医学の外来を週2回はじめ、リハビリ、透析、妊婦健診に加え、ユニークな活動の一つとなって定着しつつある。

シニアレジデントの診察を脇で見学させていただいたが、一人15分の予約患者さんに対して丁寧な診察をしていた。高齢者へのインフルエンザの予防接種の勧めや転倒を懸念して家族に防止策を提案するなど、家庭医らしさを感じる診察風景であった。診察室には同伴者のための座り心地のよさそうなソファが設置されていたのが印象的であった。

午前の診療終了後、後期研修医の方にインタービュをした(この夏の家庭医専門医試験で私が模擬患者役となったブースで受験した医師が2名もいて、そのせいもあってか様々な便宜を図っていただいた)。地域医療の現場で感じた良い点を挙げていただいた後、家庭医を増やすにはどうしたらよいか、医師を確保できない地域をどのようにしたら充実させることができるかについて訊いてみた。この話題になると俄然議論が盛り上がってきた。私の持論である「医師として20%の時間を公共のために」という意見は概ね賛同が得られたように思えたが、方法論については様々な意見がでた。

帰りの時間となったため後ろ髪を引かれながら東京経由で、次の宿泊地浜松へ向った。

(山本和利)

 

2009年12月8日火曜日

研究取材:奈義ファミリークリニック


 

突然、思いもよらぬ研究費が入り「地域医療現場で研修医は何を学ぶか」という研究を立ち上げ、各地を取材することにした。

今回の取材地は1泊2日の予定で岡山県北部の奈義ファミリークリニックである。札幌から宿泊地の津山まで、東京経由で岡山空港、そしてJRと乗り継いで7時間かかった。岡山の土地勘がないため、以外に岡山から津山までの距離を遠く感じる。

朝、7時半に松下明先生にホテルまで迎えに来ていただき、車で30分の道のりを行く。途中、日本原病院・おとなの学校という関連施設を見学。先生はオープン病棟に入院している終末期の女性患者を見舞っていた。奈義ファミリークリニックに到着し、写真撮影。以前観たビデオに収められた施設のイメージとは若干印象が異なった。もっと広大な敷地にあるのかと思いこんでいた。朝の申し送りに参加させてもらう。指導医4名、研修医7名で運営している。見学した月曜日は5つの診察室が開いていた。うらやましい限りのマンパワーである。

松下先生の外来を見学。電子カルテに家族図が描けるのに感激した。電子カルテになるとコンピュータ画面を医師と患者が90度の角度でお互いに見つめながら面談する様式になるようだ。必要に応じて壁にかかっている耳鏡、眼底鏡を駆使して診療する。皮膚の脂漏性湿疹を癌ではないかと心配する男性患者には、デジカメで必要な写真を撮って、すぐにコンピュータに登録して所見を入力していた。基礎疾患があり肩関節痛を訴える60歳代女性。肩関節注射で劇的に改善した。その後、インフルエンザ予防接種を勧める。いかにも家庭医らしい診療である。検診の結果の相談をしたり、町の補助を受けられる肺炎球菌ワクチンを勧めたりしている。後頭部痛の検査を依頼したところMRAで脳動脈瘤が見つかってしまった70代の女性。帰り際に、くも膜下出血を起こしてしまった時の延命に関する事前指示をそれとなく伝えている。先生に対する親愛を込めた眼差しを感じる。

研修医の先生の外来も見学しようとしたが、癌疑いで経過観察していた患者さんへの癌告知であったため遠慮した。告知までの経過観察時間が少し長かったと研修医は反省していることが後のインタービュでわかった。この記録を入力しているとき、研修医の先生が私の翻訳した「患者中心の医療」を持参してサインを求められた。正直うれしかった。研修医2名にインタービュ。地域医療の現場で感じた良い点をたくさんの挙げていただいた。あえて問題点を探ると、職場から自宅が遠いこと、皆バラバラの診療所で働いている、皆それぞれの自宅同士が遠い、夜遅く終わるが皆家庭もある、などで一緒にお酒が飲めないとのこと。人数が多いため、4施設に関わっており一人で継続的の一人の患者さんに関わりにくいと聞いて、医師数が多いことの問題点を認識できた。

うどん屋で特上天ぷらうどんを奢ってもらい、長い帰路に就いた。

(山本和利)

 

2009年12月7日月曜日

「北海道・家庭医療フォーラム2009」やりました!

 ちょっと報告が遅くなりましたが、先月末11月28日(土)に北海道の家庭医療後期研修プログラムを運営する7つの組織共催で「北海道・家庭医療フォーラム 2009」を行いました。
 今年は北海道で運営されている各研修プログラムの先生達それぞれから講義や
ワークショップを行ってもらうことにしたのですが、医学生・研修医だけで約30名
を集めて行うことができました。(講師やスタッフを合わせると最終的に50名くら
いの大きな会になりました。)

 札医大の学生の中には、直前に行ったアナウンスを聞いた学生が結構来てくれたので、もう少し前からもっと宣伝しておけばよかったかな、と少し反省。
 数年前我々が行ったキャリアチョイスのアンケート調査では、道内医学生各学年
の約1割に「ジェネラリスト志向」の学生が存在するようだ、との結果でした。1割
というと非常に微々たる数と思われがちですが、実は各学年10名×6学年×道内3大学=180名もの学生が(北海道内だけで)将来のキャリアとして家庭医を考えてくれているかもしれない、というわけで、こういった会を行うことは非常に重要ではないかと考えている次第です。
 そういった意味で、今回北海道家庭医療学センターの草場先生が説明してくれた
家庭医の意義から具体的なキャリア、そして将来のビジョンに至るまでの話は、学
生・研修医達に非常に分かりやすいものだったと思います。(草場先生、さすがで
す!)あとはどのようなことをしているのか実際を見てもらうことができれば、相
当説得力があるだろうなぁと思います。

 懇親会でもいろいろな先生とお話しする機会を作ることができよかったです。
 このような機会を通して道内の各家庭医研修プログラム間の交流が広がり、お互
いより発展していって欲しい、と思っています。

詳しくはこちらにも:http://www.hokkaido-primarycare.jp/news/news.html

もりさき

2009年9月12日土曜日

味覚の秋ですが・・・毒キノコに注意!

北海道はもうすでに秋。秋と言えば「実りの秋」「味覚の秋」。道産の採り立てのとうきび(トウモロコシのこと)やじゃがいも、サンマや鮭・いくらはやっぱりおいしい!北海道に住んでいてよかったと思う季節です。
秋の味覚といえばもうひとつ。そうキノコですね。温かいキノコ汁なんかはとってもおいしい。

で、今日は山あいのH病院で週末当直をしているのですが、さきほどこんな電話が。
「うちの母さんが自分で採ってきたキノコを朝食べたらしいんだけど、その後2回吐いて・・・。そしたら知り合いから『あれは猛毒だから食べちゃダメだよ』ってさっき電話があったんです。大丈夫でしょうか・・・?本人はもう元気だって言うんですが・・・。」
「食べたものはまだ残ってます?」
「ええ、まだあります。実は病院のすぐそばの道端に生えてたのを採ってきたって。まだそこにも残ってるみたいですよ。」
「あ、そうですか・・・。じゃ、早速生えてるところで食べたヤツを見てみましょう。」
こうして患者さんとともに現場検証。(写真は「現場にまだ生えていたブツ」と「自宅に残っていたブツ」)
どうやら「テングタケ」の一種だったみたいです。
(いやぁ、毒キノコの現場検証をその場でできるとは・・・地域医療ならではですかね・・・。)

本人曰く「もう吐き気はないけど、なんだかフラフラして少し頭が痛いワァ。」と。
テングタケについて調べると、「症状は食べてから15分〜90分以内に発現し、2~3時間でピークに。めまい、運動失調、痙攣状態が出現する。ひどい嘔吐はまれ」「主な症状は治療しなくても6~9時間で消退(死亡率1%以下)」とのこと。
症状経過としてはだいたい教科書通り。すでに食べてから6時間くらい経過し本人はふらつきと軽い頭痛以外元気だったので、今日はそのまま1日じっと休んで経過を見るようお願いし、特別な処置はしませんでした。

みなさん、キノコ狩りの季節ですが、食べるときは詳しい人によ〜く見てもらって下さいね。

医療関係の方、この季節に胃腸炎症状で受診した患者さんについては「毒キノコによる食中毒」も鑑別疾患に入れましょう。

では。

もりさき

2009年8月23日日曜日

105回日本精神神経学会(神戸)にシンポジストとして参加して来ました!















アンチスティグマ活動の広がり;プライマリケア医によるアンチスティグマの視点のテーマで参加しました。精神医療の現場だけではなくて、当事者の取り組み、出版通じてなどアンチスティグマの視点は、広がりをみせ、さらに今後の展開が期待され、僕たちも常に意識して医療にかかわることが大切であることを痛感しました。
てらだ

2009年8月21日金曜日

帰ってきて!利尻へ

利尻photovoice最終日。実習で育てたウニの放流〜将来医療者になってここに 帰ってくるぞ!

2009年8月19日水曜日

利尻photovoice!3日目

海の宝石!医療の宝石
現在ウニの選別中。殼をむきながら〜自分の殼を破りたい!

2009年8月18日火曜日

海へ!原点回帰の利尻photovoice!

現在札幌医大1年学生利尻でphotovoiceのまっただ中です。 てらだ

2009年7月28日火曜日

「ディア・ドクター」

土曜日医学教育学会から帰ってきた次の日、久しぶりに一人の時間ができたので映
画を観に行ってきました。

観てきたのは笑福亭鶴瓶主演の「ディア・ドクター」。

医学教育学会のあとに観た、というところが、また感慨深いものになりましたね。

「良き医療人」って何?「地域(僻地)医療」って何?というところから始まり、さ
らには主人公の伊野先生と自分が重なり合って、いろいろ考えてしまいました。

私も、たまたま大学にいたら「教官」になってしまったんですねぇ・・・。
う〜ん、共感・・・。

もりさき

2009年7月27日月曜日

医学教育学会へ行ってきました

7月24日〜25日大阪で開催された日本医学教育学会へ行ってきました。うちの講座
からは4つ発表してきました(すべてポスター発表)。
・卒前教育におけるプロフェッショナリズム・コース開発の試み(宮田)
・卒前教育におけるNarrative Based Medicine(NBM)コース開発の試み(宮田)
・将来地域で働く義務を有する医学生への地域志向性教育の試み(夏目)
・地域医療実習における家族・コミュニティに関する気付きと学び〜どのような場
面で何を学ぶのか〜(森崎)

学会では本当に様々な内容が発表されており、いろいろな取り組みをしていること
に感心したり、驚いたり、刺激を受けてきました。「医学教育」は大学内では(臨
床や基礎研究に比べると)かなり地味なんですが、やはり医学教育は大事な領域だ
と改めて思いました。

もりさき

2009年7月23日木曜日

苫小牧で講演会!

7月23日14時から苫小牧プリンスホテルで合田小児科内科医院の合田先生の主催で、「気象と健康〜天気から元気へ」のテーマで講演を行いました。参加者は70名を超え、多くの質疑応答がありとても盛り上がりました。てらだ

2009年7月18日土曜日

地域診断ワークショップを開催しました!

7月18日9:30より3時間、勤医協札幌病院で総合診療部の後期研修医(総合医コース・家庭医コース)を中心に地域診断ワークショップを開催しました。

1)Problem-focused need-based approach にならないように! 2)resources and capacities 及びpartnershipをキーワードに!

2009年7月16日木曜日

セミナー「日常診療でよくある婦人科の問題」

 今晩は第1回ニポポ・スキルアップセミナーということで、手稲渓仁会病院家庭医療科・小嶋一先生をお招きし「日常診療でよくある婦人科の問題」と題したセミナーを行いました。「うちの診療所では婦人科は診れません」という一般的な思い込み(?)を解きほぐすお話から始まり、診察時の心構えから、「外陰部の問題」、「おりもの」、「乳房の問題」といったよくある女性の問題の各論まで、わかりやすくお話していただきました。「う〜ん、なるほど・・・」と思うお話ばかりで、今後自分でもWomen's
Healthに積極的に関わってみようかな?と思うようになりました。
 ところで、小嶋先生のいらっしゃる手稲渓仁会病院家庭医療科では、今年10月から本院とは別に「家庭医療クリニック」を開設し、家庭医の本格的な教育を始動するとのことです。まずはクリニックの成功を大きな期待とともに心よりお祈りしています!
(なお、ニポポ・スキルアップセミナーはこのあとも小嶋先生をお招きし、第2回、第3回とWomen's
Healthをシリーズにして今年度行っていく予定です。今回参加できなかった方も、次回はぜひどうぞ!次回は10月21日(水)の予定です。請う、ご期待!)

もりさき

2009年7月15日水曜日

20年後

O・ヘンリーの書いたものに「20年後」という短篇がある。私にとって今から20年前というと1989年である。学生時代にはジョージ・オーウェルの「1984年」を読んで彼の予想するような管理社会になったらどうしょうと思っていたので、1984年という年はずーと意識から離れなかった。これに関連した話題になるが、私の卒業した自治医科大学は全寮制であり、そこで私は6年間過ごした。設立数年後に寮の風紀が乱れたため(?)上級生が下級生の面倒をみる制度を創設しようという案が出されて誰の反対もなく制定された。その名前が「ビッグ・ブラザー・システム」というのであった。ビッグ・ブラザーとは、「1984年」に登場するヨシフ・スターリンを想像させる管理社会の指導者である。体制批判に目覚めた主人公は密告され、拘束・拷問の末に銃殺されるという結末を迎える管理社会を皮肉った空想小説である。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだことがある人なら、寮の指導制度に絶対こんな名前は付けないだろう。これを提案したのが英語の教師であったことと医学部教官が誰も反対しないということは、彼らの誰一人として医学書以外は読んでいないのであろうと思い、大変失望したことを今でも鮮明に思い出す。

さて、「20年後」である。友人二人がある場所で20年後に再会を誓う。警察官となった男が再会したのは指名手配された友人であったという話である。小説にするには10年前でも30年前でも駄目だとある批評家が論じていた。私の場合10年前は、札幌医科大学地域医療総合医学講座が設立され赴任した年である。そして20年前は、北京で天安門事件が起こり、ベルリンの壁が崩れ、昭和天皇が崩御した年である。世界的には東西冷戦構造が崩壊し米国一国主義がもて囃され、日本にとっては敗戦前の教育を受けた指導者たちが表舞台から去っていった時期と一致する。私にとっては地域医療従事後の再研修を受けた自治医科大学大宮医療センターが開院した年である。20年前に出会った同窓生は今どうしているのだろうか。そんな思いに耽っていた矢先にたまたま、九州で地域医療に邁進している後輩から20年ぶりに会いたいという連絡が入った。あの頃の情熱を語り明かしたい。

過去の20年間は懐かしく振り返ることができる。しかし、これから20年後がどのようになるのか想像もできない。札幌医科大学地域医療総合医学講座は設立10年が経過した。私が任期を終える設立20年目はどうなっているのだろうか。中間の10年目にしてあえて問題点をあげるとすると入局する若者が少なく金属疲労を起こしているという点だろうか。患者さんの訴えを区別せずに診療するという外来・入院は中年医師だけでは体力が持たなくなってきている。しかし、総合診療の原点は、どんなに大変であっても「患者さんの訴えを区別せずに診療する」ということだと私は思う。設立20年目を想像すると不安もあるが、私自身は札幌医科大学の総合診療科がある限り一人になっても原点を見失ってはならないと、任期の中間地点に立って気持ちを新たにしている。

山本和利

 

2009年7月14日火曜日

江別・感染症ケースカンファレンスに行ってきました!

 昨日7月13日(月)18時から江別市立病院で行われた「感染症ケースカンファレンス」に行ってきました! 江別市立病院総合内科の濱口先生がロンドンにいるときお世話になった縁で、来日されていたロンドン大学衛生熱帯医学大学院校教授 Robin Bailey先生を江別へお招きし感染症の教育カンファレンスを行ったというわけです。

 Bailey先生からは「咳嗽、胸膜痛、体重減少、胸部異常影で紹介されたソマリア出身の19歳女性」、「1週間の発熱・悪寒、悪心・嘔吐、腹痛がある63歳の主婦」の2例、江別市立病院総合内科の岸野先生からは「発熱と共通を主訴に受診した32歳男性」が提示され、カンファレンスを行いました。

 お会いする前は「ロンドン大学教授って、どんなに偉い先生なんだ!?」と思っていましたが、直接お会いしたらとても優しく気さくな先生で安心しました。ただ、カンファレンスが熱を帯びてくると早口のイギリス英語がより加速し、元々英語が得意でない私は「う〜、付いていけないぞ・・・」状態に。やっぱり英語はできた方が楽しいなぁ、と改めて思ったのでした。

 Bailey先生、遠いところ北海道までお越し頂きありがとうございました。準備した濱口先生、岸野先生はじめ江別市立病院の皆さん、お疲れ様でした。 もりさき

2009年7月13日月曜日

幌加内photovoice!

2009.7.11-12に行われたサマーキャンプ in 幌加内2009でのphotovoiceの1例です。photovoiceはWangらによって提唱された参加型アクションリサーチアプローチです。一定のテーマで写真を撮影し、その写真に「ボイス」をつけ、グループ討議することによって課題を共有化するもので、今回のphotovoiceは、札幌医科大学1.2年目の医学生からみた幌加内の地域をテーマにしています。

2009年7月12日日曜日

サマーキャンプ2009幌加内

地域医療に興味のある学生のための地域実習を幌加内町で行っています。

2009年7月3日金曜日

冒険

同じ道を毎日職場と家を往復する日々が続く。出張で東京や大阪に行った時、いつもの会合場所に向かう時たまに別の道を通ってみると違った景色ばかりで方向を見失ない一瞬不安に駆られ戸惑うことがある。教育理論では驚きを振り返ることが自己向上につながるとされており、旅の効用もそのようなところにあるのかもしれない。

娘が大学卒業後、写真専門学校に入学した。今授業の一環としてアジア諸国を半年かけて写真を撮る旅を続けている。そのブログを読むと、なかなか面白い。その一部を引用しよう。

 

最近日本語が恋しくなって、バンコクの紀伊国屋書店で文庫本を買った。その一つ、上野千鶴子さんの旅に関するエッセイの中にあった、「情は人のためならず」という一編に深くうなずくことになる出来事が、トラートで起きた。「他人にしてあげた親切は、廻り廻っていずれ自分のもとに返ってくる」というこのことわざが、旅をしていると身にしみる、という内容だった。いや、正確に言えば、「他人がしてくれた親切は、廻り廻って他の誰かに返すものなんだ」ということだ。少し長くなるけれど、こんな出来事だった。

トラートへの旅は、バンコクにスーツケースを預けて、カメラと小さなバックパック一つで身軽に出かけたたった二泊の弾丸旅行。宿はトラートにとったけれど、目的はさらに90キロほど離れたカンボジア国境のある海沿いのハートレークという小さな小さな町。移動には車で1時間以上かかる。たった二泊三日で何ができるんだ、と思いながら組んだスケジュールだったけれど、不思議なもので、短い時間なりに出会いはいつも向こうからやってくる。美容室の家族や、材木の貿易をしている会社の御一行様と知り合い、食事や飲み物、トラートまでの帰りの足まで提供していただいた。言葉は、まったく通じない。通じた英語は、Yes/No, thank you, bye-bye,TOYOTAだけだった。どうやって話していたかというと、
彼らがよく使う方法は、英語が話せる知り合いに電話をかけ、通訳をしてもらうというもの。ジェスチャーで通じなくなると、どこかへ電話をかけ、タイ語で話した後、私に渡してくる。出ると、相手は名乗ることもなくいきなりブロークンな英語で''He said..."とか "She ask you..."とか言って教えてくれる。ベトナムでもよくそうされたけど、あくまでもタクシーの運転手とか、宿のおばさんとか、仕事上必要なことを私から聞き出すためにそうしていたのであって、日常会話レベルでこうも頻繁に電話を渡されるのは初めてだ。手間もお金もかかるのに、彼らのコミュニケーション意欲はすごい。そして5分おきにかかってくる電話に嫌な顔(は見えないから、声か)一つせずに通訳してくれる名も知らぬお友達のやさしさと根気強さに感心する。そんな町で楽しく過ごした二日目の夜、貿易商の33歳のコーさんとその仲間たちにトラートまで送ってもらい、いざ別れという時。メモ帳に連絡先を書いてもらおうと思ってポケットを探るが、ない!かばんの中身を全部出してみても、車のシートの下を見てみても、やっぱりない。ハートレークで落としたんだ。さっきまでの楽しい気分が一気に消えていく。旅で出会った、何人の連絡先が書いてあっただろう?金門で夕食をごちそうになり、写真を送る約束をしていた家族のメールアドレスも、ランソンでナーに書いてもらったサバイバルベトナム語も、タイニンで学生の生活について教えてくれたことを書き留めたメモも、プノンペンで「何か困ったことがあったらいつでも連絡して」といってくれた青年ユーホンの電話番号も、全部全部あの小さなノートの中だったのに!いつでも連絡出来ると思っていた人達との唯一の連絡手段が、こんなに脆いものだったって、なんでもっと早くに気付かなかったのか。ケータイをなくした女子高生の気分って、こんな感じなのだろうか。例の電話通訳に事情を話すと、なんと、今走って来たばかりの90キロ先のハートレークまで戻ってくれるという。しかし時間はもう遅い。真っ暗で探しようがないだろう。相談して、翌朝、バンコク行きのバスに乗る前の早朝に、もう一度ハートレークに連れて行ってくれることになった。翌朝、5時半にコーさんの車で迎えが来る。一生懸命タイ語で私を励ましながら、ご機嫌顔で90キロの道のりを飛ばす。ハートレークでは前日に見かけた顔ぶれがぞろり。コーさんが町中の人に事情を話し、手分けしての大捜索が始まった。心当たりをくまなく探して一時間、結局メモ帳は出てこなかった。もう、十分だった。探してくれた町中の人にお礼を言って、帰ることにした。バンコク行きのバスの出発まで時間がないことを通訳を通じて伝えると、コーさんは宿に着くなりパッキングを手伝ってくれた上、まだ払っていなかった二泊目の宿代をいつのまにか支払い、さらにはバスターミナルでバンコク行きの切符まで買ってくれた。宿代とバス代はどうしても受け取ってくれなかった。早朝から往復3時間近い道のりを、知り合ったばかりの言葉も通じない外国人のメモ帳ひとつのために車を走らせてくれたうえに、ここまでしてくれるなんて!コップンカー。私が言えるタイ語の感謝の表現は、それだけ。
あまりに乏しくて、もどかしかった。このお礼を、どうしたらできるんだろう?「日本に来ることがあったら、絶対に連絡してね、何でもするから」中国に住んでいたときも、この旅が始まってからも、親切にしてくれた人と別れるたびに何度か口にしたこのセリフ、本当は、実現しないってこと、お互いわかってるんだ。こうして世界中を自由に飛び回れる私のような立場が、どれだけ特殊かということ、自覚しているから。でも、言わずにはいられない。今度は私の番であるということ。それはいつか出会う見知らぬ誰かに廻っていくんだ。その誰かに「どうしてこんなに親切にしてくれるの?」と聞かれたら、「他の人が私にそうしてくれたから」と答えよう。それでいいんだ。

娘のブログを読んで元気をもらった。さて、私のことである。

現在、3か所の医療機関で研修医を月に1回指導している。その中に北海道が好きというだけで九州の大学を卒業後、単身道内の決して都会とは言えない病院の研修プログラムに飛び込んでくれた青年がいる。指導医が少なく指導医自身が自分の担当患者や外来診療で忙しく十分に指導が受けられない環境にある。しかしながら、そのことをポジティブにとらえている。受け持ちの患者について指導医の助言が少ない分、自由な裁量が大きいため試行錯誤しながら充実した日々を送っている。毎日が驚きの連続で、それを振り返ることによって進歩してゆくことが月1度の指導の中でも伝わってくる。初めての外来診療にしても一人目は緊張していてうまくいかなかったが、ポイントを示して二人目の患者になるとうまくできるようになっている。画像診断、検査データの解釈、治療の選択など、まだ医師になって3カ月とは思えないほどしっかりできている。

私の研修もこのような独学に近いものであった。このような若者が全国にたくさんいるはずである。彼らが燃え尽きないように、サポートしてゆきたい。冒険心を持ったすばらしい若者に出会うと、私も少し冒険をしなければと気持ちを新たにするのである。

山本和利

 

 

 

2009年6月11日木曜日

偶然性

本を読むことが習慣になっているため、手許に読みたい本がないと落ち着かない。我が家では二度以上読まない本は原則買ってはいけないことになっている。経費節約と読後の収納スペースを我が家に確保することが難しいからである。そこで専ら札幌市立図書館を利用している。市民であれば2週間に一人10冊まで借りることができる。娘や妻の分を借りるとさらに20冊追加できる。先日たまたま手許に本がない状況が生じたため、時間を作って札幌市立中央図書館へ出向いて本を物色することにした。トルストイの新訳「アンナ・カレーニナ」を借りようとしたら第2巻から4巻はあるのに1巻が貸し出しになっていたため、前回出向いたときに諦めたのだが、今回は第1巻が戻っていたため借りることにした。貸し出しカウンターに向かうところで、カラフルな本が並んでいる棚を見つけた。そこの一角を池沢夏樹氏編集の世界文学全集が占めていた。その中の藤色できれいな装丁の「存在の耐えられない軽さ」を借りることにした。そのそばに若島正氏の書評を集めた「乱視読者の新冒険」を手にとってみると最初に「アンナ・カレーニナ」取り上げているのでそれも借りた。

数日かけて「アンナ・カレーニナ(1)」を読み終わって、「存在の耐えられない軽さ」を読み始めて驚いた。作中の女性主人公が読んでいる本が「アンナ・カレーニナ」なのである。「存在の耐えられない軽さ」の解説を読むと哲学的内容を小説にしたものであるとあるが、最初に言及しているのが主人公二人の出会いに関する「偶然性」である。

私が暇に任せて選んだ二冊がたまたま同じ「アンナ・カレーニナ」に言及していて、その中で「偶然性」に言及しているのは偶然なのであろうが、何か縁を感じてしまう。

 偶然について私の場合で考えると、高校入学までは都会の高校で勉強したいと思ってがむしゃらに人生の方向性を自分で決めようとしたが、大学入学から今に至るまで「存在の耐えられない軽さ」の主人公たちのように偶然の積み重ねで人生の方向が決まったような気がするのである。たまたま私が高校を卒業する年度に自治医科大学が設立されなければ、今ほどには私も「地域医療」に関わらなかっただろうし、(栃木出身の)妻に出会うことはなかったであろう。田舎を苦にする妻であったら地域医療との出会いも長い付き合いにならなかったかもしれない。「存在の耐えられない軽さ」の中で主人公二人が会うには「一連の六つもの偶然が」が作用したと男性主人公は考えている。しかしながら、この小説を読み進めてゆくと、単に偶然ということではなく、主人公たちの抱える背景が影響してその中で自己決定した結果であるようにも思えるのである。私に引き寄せて考えると、様々な偶然の出会いの中で、今の運命を選択したような気がするのである。作者クンデラは、哲学者のニーチェのいうような人生の永劫回帰を否定している。クンデラは言う。繰り返しのない1回の人生なので人生上の決断は軽いのだと。はたまた一回性ゆえに逆に重いのか。クンデラの言葉は反語と受け取れないこともない。

 今日も本の中に出会いを求めてさまよっている。今、池沢夏樹氏編集の世界文学全集の黄色のきれいな本を手にしている。それには中国の作家、残雪の「暗夜」とベトナムの作家バオ・ニンの「戦争の悲しみ」が載っている。文化大革命やベトナム戦争を体験した作者たちの苦悩に比べると、「地域医療崩壊」で日々悶々としている自分が小さく見えてくるのである。このように自分の抱える悩みを相対化して、新たな行動へ向かわせてくれるというのも読書の効能のひとつかもしれない。

山本和利

 

2009年5月19日火曜日

時間を遡ることで見えてくるもの

 日々総合診療科で診察をしていると、複雑な背景をもった患者と出会うことが多い。検査を繰り返し、様々な科を渡り歩き、それでも診断がつかない患者たちである。そのようにして総合診療科にたどり着いた患者たちは皆、何とかして診断名をつけてほしい、せめてこの苦痛を取り除いてほしいと切望している。

あらゆる生物医学的検査をやり尽くして私の前に現れたそのような患者に、同じような検査を繰り返すことはもはや意味がない。遠回りのようでも患者の背景を丹念に探り、答えを見つけてゆくしかない。そのために私たちは患者に語ってもらいヒントを引き出そうとする。そんなときに、たまたま観た映画が示唆を与えてくれることがある。韓国のイ・チャンドン監督による『ペパーミント・キャンディー』という映画がある。映画の構成上、長い引用になるが以下に取り上げてみたい。

『ペパーミント・キャンディー』

この映画が通常の映画と異なっているのは、冒頭に現在が映し出され、そこから時間の流れが逆戻りしていることである。物語は主人公が自殺をしようとするところから始まり、話は、3日前、5年前、10年前・・・とこの男の過去にさかのぼっていく。人生を線路に置き換え、それを逆走するようにある男の人生を振り返る構成である。

映画はいきなり冒頭から、ひどく打ちのめされ人生に絶望している主人公ヨンホの姿で始まる。それが何故なのか、もちろん観客にはさっぱり分からない。3三日前に彼は初恋の女性スニムの病床を見舞っているが、この女性とどんな経緯があったのかはもちろんのこと、その時見舞いに持って行ったペパーミント・キャンディーがどんな意味をもつのか、帰り際に右膝が痛んだのは何故なのかについても、観客には全く説明されていない。スニムの夫から、スニムが大事にしていたというカメラを手渡されるが、このカメラが何であるかも謎である。映画は5年前に遡り、ヨンホが事業をしていて騙されたことや、家庭が上手くいっていないことなどが描かれ、少しずつこの男の輪郭が見え始める。12年ほど遡ると、それ以前に刑事をしていたことも判明してくる。取調室で残酷な拷問を慣れた手つきで加えながら訊問を繰り返すシーンから、この時点ですでにヨンホの精神が荒廃していることも分かってくる。そこからさらに3年遡ると、新米刑事のヨンホが、先輩刑事の行う容疑者への激しい拷問に怯える様子が映し出される。そのように映画が過去に遡っていくたびに、ヨンホの心の軌跡が次第に鮮明になってくる。それに従って、謎であったペパーミント・キャンディーやカメラなどのもつ意味が解明されていく。映画が19年前の兵役時代まで遡って、ヨンホのその後の人生に大きな陰りを与えることになる衝撃的な出来事が明かされたとき、初めて観客は右膝の痛みの持つ意味、ヨンホのその後の人生が狂っていく理由を知ることになる。20年前、そんな人生が待っているとは知らず、写真家になることを夢見ながら、冒頭シーンと同じ場所で淡い恋心を寄せ合うヨンホとスニムを映し出して映画は幕を閉じる。この映画は、観終わった後で全てが分かるというしかけになっているのである。

この映画で特に注目したいのは、身体が語る物語性である。重大な場面に直面したときこの男には必ずといってよいほど右膝痛が起こる。瀕死のスニムを見舞った直後に襲う右膝痛。刑事として張り込みを続け、容疑者を追い損なったとき起こる右膝痛。列車でスニムを駅で見送るとき、スニムにプレゼントされたカメラを無言で返すヨンホ。列車が遠ざかるとき、突然起こる右膝痛。自分の人生を狂わせた出来事がきっかけとなってその後幾度も右膝痛が現れる。身体症状もひとつの物語を伝達する。そこには個人を越えた歴史(兵役時代に遭遇した光州事件)も埋め込まれている。破局を向かえている家族、失業、友人の裏切り、意に添わない仕事、社会に対する怒り、兵役時代に遭遇した事件・・・様々なことが非線形的に右膝痛に集約されてゆく。ヨンホが現在の日本に現れて右膝痛の原因精査を受けたとき、担当した医療者が病院内でできる血液検査、膝のX線、MRIを駆使したとしてもどれだけの医療者が右膝痛の成因にたどり着けるだろうか。なぜこの男が自殺をしたかを理解できるだろうか。

医療場面

医療の現場は、この映画であれば「右膝痛」を愁訴に来院した患者との出会いから始まるといってよいだろう。映画の観客はここに至るまでの顛末を観てきているので、何故ヨンホが自殺するのか、何故右膝が痛むのかを、理解できるとは言わないまでも推測することはできる。ところが医療の現場では「右膝痛」だけをもって医療者の前に現れるのだ。このような患者を前にして、医療者はどのようにその原因を探り診断をつければよいのか。この男のここに至るまでの人生の軌跡を知らなければ、それは不可能である。この映画をとりあげたのは、この映画の手法が、医療の「語り」を通じながら患者の背景を探っていくプロセスによく似ているからである。

例えば別の例で、「胸が痛む」といって患者が来院したとしよう。まず医療者は一通り生物医学的アプローチで原因を探ろうとするだろう。急性に起こったもので重篤なものは、急性心筋梗塞、肺塞栓症、緊張生気胸、解離性大動脈瘤、心タンポナーゼなどの命に関わる疾患を考慮する必要があるだろう。しかしながらそのような緊急の状況でなければ、「胸が痛む」原因は別のところにある訳で、それを探るためには患者にここに来るに至った経緯や思いを「語って」もらわなければならない。患者に語ってもらい、それを医療者が聴くことを通じて、またその内容を積み上げてゆくことによって初めて、核心に近づいてゆくことができるのである。これは患者自身が「病い」の意味を見つけてゆくプロセスでもある。

医療の現場で語られる言葉

患者の訴えがどのようなものであれ、往々にして、重篤度に関係なく客観的な裏付けを求めて検査が組まれてゆく。そこで運よく診断が下ればよいが、そうでない場合には、客観的な裏付けを求めて患者はドクターショッピングを繰り返すことになりかねない。このような科学的裏付けが得られない愁訴に対処するためには、医療そのものを患者の側にさらに引き寄せなければならない。これまでの科学的裏付けだけを求めるようなアプローチを改めて、非線形的に様々なことを考慮せざるを得ない。すなわち様々なことが複雑に絡み合って症状が惹起されたと考えて背景を重要視するということである。そこで重要になってくるのが患者に「語って」もらうということなのである。

繰り返しになるが、医療において「語り」が重要なのは、「語る」ことで「語り手」と「聴き手」がつながり、患者は自身の「病い」に意味を見いだすことができるからである。ストーリーもナラティブも'語り'と訳されるが、厳密には大きな相違がある。ストーリーとは直線的で完結した言語構造体、ナラティブとは複雑で他者へ向けられた言語行為である。病者と医療者のかかわりは、相互の「語り」を通じて展開してゆく。ストーリーは、科学的説明では描ききれないような時間的、空間的な広がりをもって世界を描き出すが、現実の理解を一定の方向へ導き、制約もする。医療者はできるだけ科学で説明できるような診断名を付けて病態生理学的に矛盾のないストーリーを作ろうとする。一方、患者は症状や苦悩の中に人生の意味を見いだせるようなストーリーを作ろうとする。それゆえ、そのそれぞれ両者のストーリーは容易には一致できない。患者の持つストーリーを少しでもポジティブな「自己物語」に書き換えるためには、少なくとも聴く耳をもつ誰かに向かって語られなければならない。そしてストーリーとしての一貫性は現在がストーリーの結末になるように組織化されることで得られるである。

しかしながら一口に「語り」といっても、一筋縄ではいかないものである。患者自身、痛みに生物医学的以外の意味があるなどと意識してはいないことが多い。ヨンホの右膝の痛みは10年以上前から起こっている。その後何度も繰り返され、3日前に危篤状態の初恋の人を見舞ったときにも起こっている。ヨンホは医療従事者の前に立つことなく別の理由で自殺してしまうが、医療従事者のもとへ向かう多くの人々は、右膝の痛みに別の意味があるなどとは考えずに純粋に器質的なものだと考えている。生物医学的検査でわからない場合には、患者との対話を通じて新たなストーリーを創り上げてゆくが必要があるだろう。そうすることによって患者の「語り」も変化してゆく。「語り」にも段階があるのである。

「語り」

アーサー・W・フランクは語りを、「回復の語り」、「混沌の語り」、「探求の語り」の3つに分けて考察している。「回復の語り」は病気になって間もない人に多く、治癒する可能性が高いため健康を取り戻すという筋書きを具体化しやすく、幸福な結末が待ち受けているのだということを確信させる。タルコット・パーソンズの"病者役割"の理論がそれである。原因が生物医学的な説明で納得できる病者が回復の語りを好むのに対して、「混沌の語り」は聴く者の不安をかき立てるものである。『傷ついた物語の語り手』の中でフランクは次のように述べている。「身体は沈黙しているわけではない。しかし、その声ははっきりと語られていない。身体は言葉を利用するのでなく、それを生み落とすのである。身体が生み落とす言葉の中に、病いの物語が含まれている。」混沌の語りにおいては、患者自身が混沌としていて言葉によって語ることができず、聴きとりがたいものである。ヨンホが診察室を訪れたならば、混沌の物語が語られるであろうことは容易に想像がつく。聴き手が混沌を否認しても、語る者の恐怖を一層深めてゆくだけである。そうであれば私たち医療者に求められることは、混沌を人生の語りの一部分として受容する力を高めることである。

 「探求の語り」は、「混沌の語り」を新たな形に組み換えて苦しみに真っ向から立ち向かおうとするものである。それは病いを受け入れ、病いを利用しようとさえする。「探求の語り」は、病者であることの新たな在り方の追求について語る。その中には、回想・連帯・励ましが含まれる。そして「探求の語り」をすることで、生存のための闘いが始まる。フランクは、"生存者"よりも"証人"という言葉を好む。生存という概念には、生き延びるということ以外には何ら特別な責任は付随しないが、証人になるためには、起こったことを語るという責任を引き受けなければならない。証言は、それを証言するものの中に他者を巻き込むのである。「探求の語り」は、病いは旅であったのだというとらえ方をしており、病者であることの新たな在り方の追求についてをも語る。それは「語り」の最高段階であり、患者も医師もここを目指しているのだといっていいだろう。

暗黙に知ること

今後の医療は、生物医学的アプローチとナラティブなアプローチを融合した形で実践してゆく必要がある。だがそれを実践することは言葉にするほど簡単ではない。「暗黙に知ること」とは、言葉で説明するのは難しいけれどその行為等を繰り返すことで自分のなかで自動化されることをいう。私たちは、外部にある事物に意識を向けることによって自らの身体を自覚する。超音波専門医を例にあげよう。超音波のプローベに触診・聴診の役割を与えるとき、その行為を繰り返すという暗黙的認識によって、その専門医はそれを自らの身体に取り込み、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、その専門医はその事物を内在化するようになる。その専門医は超音波と一緒にあれば優秀な診断医ということになる。膝痛や様々な関節痛を診断するために、X線検査やMRI検査を繰り返す専門医にはそれが内在化されてゆく。現在のあらゆる専門医はこのように科学的裏付けをもたらす医療機器を内在化しながら日々鍛錬に余念がない。精神科医でさえ、画像診断を求める時代である。しかしながら、その内在化されたものは非常に狭い領域であり、その領域を外れたものに対しては全く無力である。医療者の前に現れた患者の問題を解決するために、医療者は自分の中の内在化した知識・技能・態度すべてを動員する必要がある。しかしながら、動員すべき内在化したものが狭い領域であれば、限られた患者に対してしか力が発揮できない。そのためだろうか。巷では納得する診断や解決を求めて患者が右往左往している。このような内在化した知識・技能・態度に裏付けられた「直観」は広い領域に対応できるものでなければならない。「直観」とは、内在化したものを駆使してさまざまな要素を絡み合わせて瞬間的に判断することである。患者のストーリーを訊きだし、自分のストーリーと重ね合わせて、対話しながら新たなナラティブを創造するためにはそれなりの暗黙知が要求される。実際に治療を行う場合には医療者側に相当な技量や感受性がなければ、患者の問題に対応しきれないことになる。

患者は結末から始まる映画のようなものである。患者の傍らで医療者は、患者の「まだ語られない」話や身体症状から暗黙裏に患者の病いを探らなければならないのである。そしてそこから結末にたどり着くまでは至難の道のりである。映画を観て最後に感動するほどには簡単なことではない。それは一生かかっても修得できない技・態度であるかもしれない。とは言えそこに向かって一歩踏み出すことはできる。よい映画を観るとふとそんな気にさせられる。(MARTA, 2006,vol4,no.2から一部改変し転載した)

山本和利

2009年5月12日火曜日

講義・講義・講義の4月

4月13日(月)、札幌近郊の病院で新患外来。疾病(disease)を持つ患者さんが思いの外多い。大学で行うときと診療スタイルを変える必要があり、かえって新鮮な体験である。心不全の70歳代女性、虫垂炎疑いの60歳代男性、糖尿病コントロール不良(HbA1c:10%)の慢性咳そうの60歳代女性、など20名ほどを担当。

午後、保健医療学部2年生50名に「医療経済学」の講義。これは5年以上前に、当時企画をした経済学の教官が栄転してしまったため札幌医科大学内部に講義を担当できる者がいなくなり、急遽、EBMで費用効果分析を私が行っているという話を聞きつけた保健医療学部の教官に頼み込まれ引き受けたという曰く付きの講義である。学生に調べさせて発表させればよいだろうと安易に引き受けたが、当時は4年生対象の選択授業であったためあえて選択する必要性がないらしく、選択した学生はたった1名であった。結局私自身が本を数十冊買い込んだり図書館で借りたりしながら急場しのいだのであった。

「あなたがインフルエンザに罹患したらタミフルを服用するか」という問いかけをして、グループ発表をしながら講義を進めていった。後半は、エンデの「モモ」を引用して、利子が本当に必要なのかどうかを考えてもらい、世界・日本各地の地域通貨を紹介して講義を終えた。保健医療学部の講義は一方通行の講義が多いらしく、私のやり方は非常に好評であった。内容についてはホームページを参照のこと。

4月14日(火)、午前は大学で新患外来。インフルエンザ検査の医学生が1名。午後、教室スタッフが行う医学史講義(「プレゼンテーションの仕方」を学ぶ)を見学。

4月15日(水)、午前は再診外来25名。午後、カンファでニポポ研修医向け講義を行う(教室長の提案で本年度より突然、私がやるように言われたため)。1年間、毎月1回、12回に分けて30分程度行う次のような企画を立てた。また、重要な論文や総合診療に必要な書籍を紹介するようにした。

■日常的な診療能力

1.医療へ越境する住民ニーズに応える

2.疾病はないが虚弱な高齢者を診る                                      

3.疾病を求めて受診する患者を診る

4.予防・健康増進もする

5.小児も診る

6.緩和ケアもする                                                    

7.在宅ケアもする

■問題への対処力

8.臨床疫学的な判断をする

■コミュニケーション能力

9.家族との良好な関係を構築する:

■医療マネージメント力

10.地域を活性化する

■臨床現場での教育力

11.教育方法に精通する

■生涯学習能力

12.EBMを実践する

第1回目なので、家庭医療・総合診療の基本となるEngel GL: The need for a new medical model: a challenge for biomedicine. Science 1977;137:535-44、を図書館でコピーし配布し、概説を述べた。恥ずかしながらこれまで何十回と講義・講演の場でこの文献を取り上げながら全文に目を通していなかった。書籍としてはJoachim P. Sturnbergsomato-psycho-socio-semiotic modelとして提唱し、EngelBiopsychosocial modelを発展させた理論書である「The Foundations of Primary Care daring to be different」(Radcliffe, 2007)を紹介した。詳細はホームページ資料を参照。

 講義終了後、札幌駅付近の自治労会館に移動し、北海道内市町村の民主党議員に「地域医療の課題」についての講演をした。早めに行って北海道では非常に有名な国会議員の講演も拝聴した。威圧感はなく、やわらかな口調で、道路・住宅・教育・医療など様々な質問に答えてゆく内容は門外漢の私にも大変に勉強になった。私の講演はつかみとして、ドキュメンタリー映画の話から入った。眠る議員も少なく、時には笑いもゲット。終了時には大きな拍手をいただいた。「医師は20%の時間を公共のために割くべきである」という私の主張が政策に反映されることを祈りたい。具体的な内容についてはホームページを参考にされたい。

 4月16日(木)、予定は会議が一件のみ。一日講義資料作成を予定していたところ、突然、札幌医科大学の卒業生から学会発表論文の統計処置について問い合わせの電話が来る。「心臓カテーテル治療であるバルーン拡張後の突然冠動脈血流が低下(slow flow現象)を予測できるかどうか後ろ向きに検討する研究であり、3つの要因がslow flow現象と単層間があると結論づけて演題を出してしまったが、その後よくよく考えてみると幾つか疑問点が生じたので、意見を求めたいというものである。臨床疫学の診断の章をFAXしたり、その後、FAXで統計処理をしたデータをみながら電話で会話をしたりと忙しい時間となった。

 FAXへの取り組みが一段落したところで、北海道医療大学から頼まれた「エビデンスに基づいた医療提供とは何か?」という講義の原稿、e-learning課題の作成を行った。そして少し時間に余裕があったので、数ヶ月放置していた「日本学術振興会審査委員候補者データベース」にアクセスして入力を行った。

 4月17日(金)4年生にEBMの授業。診断編1を行う(詳細はホームページを参照)。午後、修士課程の入学者に「臨床疫学入門 科学的とはどういうことか」を講義する(詳細はホームページを参照)。

 4月18日(土)、NPO北海道プライマリ・ケアネットワークの理事会・代表者会議・総会・研修発表会・懇親会に11時から19時まで参加。その後、反貧困映画祭と銘打った映画を2本観て、23時帰宅。

 4月19日(日)、たまたま何も予定がないので、市立図書館に立ち寄った後、途中休憩を入れて4時間に及ぶ映画を鑑賞する。

 4月20日(月)、午前の診療支援を12時で打ち切ってもらい、札幌に急いでもどる。1330分より「医療経済学」の講義。外来で診療した女性患者を提示してグループで話し合ってもらう時間をとった。保健医療学部の学生にはこのスタイルが好評である。夕方、学長、医学部長を交えた特別推薦枠入学1年生のオリエンテーション。その後、反貧困映画1本鑑賞。

 4月21日(火)、午前、新患外来を担当。昼休みに医学史の発表について指導担当となった1年生と打ち合わせ。夕刻、道東地区の町立病院院長と面談。

 4月22日(水)、EBMの診断編の講義。ベイズの定理を元に、2×2表から検査後確率を算出する演習と検査前オッズと尤度比から検査後オッズ算出の実習を行う。教室を変えて修士課程の新入生に当教室の研修内容について英語のスライドで説明を行った。一部を紹介すると

Our Department was established in 1999.

 Its mission is to make a significant contribution to community medical care in Hokkaido.

The Department has two primary goals:

one is to produce primary care physicians through sound, systematic, undergraduate and graduate medical education;

the other is to promote research on community medical care, general medicine/practice, clinical epidemiology and holistic medicine.

 4月23日(木)、朝、プライマリケアレクチャーに参加した後、講義資料作りに勤しむ。札幌市内の病院長の面談を終えて、病院運営協議会、教授会に出席した。

 4月24日(金)、4年生にEBMの授業。診断編3を行う(詳細はホームページを参照)。夕刻、寺島実郎氏の講演会の後、特別推薦入試合格の学生と食事をしながら利尻町中央病院院長中川紘明氏の地域医療の講義を拝聴した。

 4月27日(月)午後、保健医療学部で「医療経済学の講義。

 4月28日(火)、日帰りで和歌山医大の5年生の「地域医療の現状と取り組み」の講義。

 4月30日(木)、午前は地域の病院の診療支援をし、午後、1年目の臨床研修医と受け持ち患者の問題に答えながら、総合診療について講義。

 4月中、いろいろな形式のものを合計すると15回講義をしたことになる。講義に始まり講義で終わった1ヶ月であった。

(山本和利)

2009年4月20日月曜日

大学教官の4月

本年2月、教室創設10周年となった。2月1日赴任であったため、翌年の授業日程は3名の学生の1時間講義と週2回の外来診療以外は全く予定がない状態であった。

話を現在に戻そう。ソケイヘルニアの手術を終えて退院の翌日月曜日、久しぶりに妻に車で送ってもらう。笑ったりくしゃみをしたりすると痛む。そのためいつも車の中で聞いている落語が聞けない。9時から5年生対象の「professionalism」のオリエンテーションの講義を担当。その後、復学した学生と面談。

3月31日(火)、新患患者を数人診る。教室員が勤務していた町立病院の町長と懇談。

4月の予定では、15回講義(講演)が入っている。

4月1日(水)、再診外来、カンファランス。

4月2日(木)、朝7時にY病院へ診療支援に向かう。朝の1時間、2年目・3年目研修医と症例検討会。右側腹部痛の70歳代女性。尿管結石の既往があるので研修医は尿管結石と思っているらしいが、患者本人から病歴を聞くと転倒して脇腹を打っており、本人は「肉離れ」と思っている。研修医より患者の診断の方が正しいのがなぜか可笑しい。

4月3日(金)、「professionalism」の仕上げの授業。学生医師(Student physician: SP)憲章を3時間のワークショップ形式で学生自身が作成する授業である。作成を始めて今年で3年目であるが、先輩たちの真似を嫌うようだ。学生の作成した2009年度SP憲章は次の通りである。

私たちは次のことを宣言します。

Sincere 誠実な気持ちで

Active 積極的に取り組み

Professional 医療人としての自覚と

Moral 倫理観を持ち 

Encourage 互いに高め合い

Develop 日々成長する

以上に掲げた「SAPMED」の精神に則り、感謝の気持ちを忘れず、臨床実習に臨むことを誓います。

SAPMEDとは札幌医科大学(Sapporo Medical University)の略称である。午後、医学部長、病院長のもとで授与式を行い、宣誓をした後全員で写真撮影をして終了となる。写真は病院1階の患者待合い室と臨床研究棟に飾られる。

4月4日(土)、北海道プライマリ・ケアネットワーク後期研修プログラム(ニポポ)のオリエンテーションに参加。新規研修医2名、受け入れの4施設と事務局が参加。研修医全員にiPODを贈呈する。情報検索ツールであるDynamedにいつでもアクセスして最新のエビデンスを入手できるようにするためである。iPODの欲しい方は是非ニポポに参加を! 席を移して懇親会で盛り上がる。

4月5日(日)、午前は映画。午後は娘と落語会。

4月6日(月)、札幌近郊の病院の診療支援で外来を担当。50歳代の男性。左ソケイ部の腫瘤を主訴に来院。立位での腹部診察を終えてソケイヘルニアと診断し外科を紹介する。1週間前に自分自身が手術を受けたばかりなので、知識をひけらかしたくなる。手術の内容、病棟での苦労話に加えて、入院費の詳細を伝え自分のズボンを下げて傷まで見せてあげた。「原因は何ですか」と聞かれて、「加齢だそうです」と答える自分が悲しい。

4月7日(火)、午前に新患外来を担当。午後、入学2日目の1年生に「医学史」のオリエンテーションの授業。目が輝き、授業に集中する姿勢が初々しい。ゴールデン・ウィークを過ぎても先輩と同じように(私語・マンガ読み・途中退席など)ならないことを祈りたい。

4月8日(水)、午前再診。午後、カンファランス。16時ころから4年生に「Evidence-based Medicine」の第1回目の講義。途中で抜けてゆく学生を尻目に講義を続ける。感想文の内容は好意的なものが多く一安心。その後、今年度から導入されたメンター制の説明会に参加。

4月9日(木)、7時30分からTV会議システムを使ったPrimary Care Lectureで「山本はこうしている!エビデンスに基づく糖尿病治療2009」の講義を30分行う。たくさんの質問をいただき、うれしい限りである。詳細はホームページの参照。

糖尿病 12TIPS

1. 尿糖検査は糖尿病の診断に用いない

2. 三食きちんとゆっくりよく噛んで腹八分

3. 食後に有酸素運動を

4. 食事・運動療法で3ヶ月行い、改善しない場合は経口薬を投与

5. 妊娠中の治療はインスリン

6. インスリンは超速効型、速効型以外は静注してはならない

7. コントロール不良の場合にはインスリン導入が必要である。

8. 食事摂取ができる患者にスライディング・スケールは用いない

9. ステロイド治療開始とともに高血糖を呈することがある

10. 血糖よりも血圧コントロールが重要

11. 脂質代謝へのアプローチは積極的に治療

12. 血糖自己測定は必ずしも必要としない

教授会終了後、診療支援・研修医指導のため新千歳空港から女満別空港へ。

4月10日(金)、朝8時、研修医と症例検討し病棟で患者を診察する。総合外来を担当し札幌へ帰る。

4月11日(土)、16時、東京都医師会で三学会統合に伴う編集者会議に参加。早めに東京入りして内科学会の聴講。総合内科医のあり方についてシンポジストの意見を拝聴。18時、エビデンスに基づいた勃起障害の講演に引き続いて、泌尿器・内科医に対してナラティブ・ベイスト・メディスインについての講演を行った。講演の最後に、聴講者からの提案で急遽電子投票が行われることになった。�山本の言う通り、�どちらかと言えばそう思う、�山本の言うことは非現実的、の3つから選択するもの。�57%、�38%、�5%、であった。最高齢と思われる会長さんが情報交換会での乾杯で、私の講演で一番勉強なった話は「忙しい医者は涙のための時間が持てない。実は・・・暇な医者も涙のための時間が持てない。患者の気持ちをようやく聴けるような年齢になると、耳が遠くなっている。」と発言。講演のおもしろさは、脱線にある? 

山本和利

2009年4月6日月曜日

生まれて初めての手術

私はつい先日生まれてはじめての手術を受けたところです。1ヶ月前に右下腹部に睾丸を蹴られた時のような痛みを感じました。そのうち、立ったとき右ソケイ部に腫瘤を蝕知するようになり、ソケイヘルニアと診断され手術を勧められた次第です。手術自体は硬膜外麻酔と吸入麻酔のため記憶のないまま終わりました。しかしながら、経営や医療事故防止の観点から、経過がよくともソケイヘルニアのクリニカルパスに従って入院生活を過ごさなければなりません。そこで初めて36時間の絶食と24時間のベッド上安静、尿道カテーテルの留置を体験しました。患者さんの大変さを、身をもって体験できました。またこれまで3年間減量に努め、毎日の体重測定、ダイエット日記、妻や娘の厳重な監視にもかかわらず一向に減らなかった体重が、3日間の入院で見事に落ちまました。これも厳格で不自由なクリニカルパスの効用かもしれません。

初めて自由を束縛された生活を余儀なくさせられましたが、自由勝手に出歩いたり飲食したりするよりも術後経過がよくなるだろうという思いと、数日の我慢であることが遵守させたのかもしれません。そんな苦労のお陰で望外にも目標体重を維持できています。

入院病棟の見舞客の話し声の中に、札幌近郊のある病院が今年度から研修医の派遣を打ち切られ、中堅医師が疲弊して病院が運営の危機に瀕しているということが聞こえてきました。痛みに耐えながら眠れず朦朧とした頭の中に次のような地域医療再建策が浮かんできました。厳格で不自由なクリニカルパスを入院患者管理に適応するのと同じように、次のような政策を地域医療にも策定してはどうかということです。初期臨床研修終了後の1年間、夜間救急や医療過疎地、離島勤務など現在医師不足で苦悩している領域に約8,000名の医師を振り分けるというものです。 

このような短期間自由を制限することになる地域医療政策は、初期臨床研修終了医師たちには無謀な提案でしょうか。もちろん地域医療を再生するためには、政策的誘導のみならず現場でそれぞれが試行錯誤を繰り返すことが必要かと思います。臨床研修制度も見直しが行われると決まりました。北海道では、地域医療再建に向け、行政、医師会、大学関係者、市町村長会などが共同で対策を練るような企画が進行しています。「総合診療」能力を身につけた医師を増やし「地域医療」に関わらせるというスタンスを推進すべく活動してゆきたいと、生まれて初めての手術を経験した新年度の開始にあたり気持ちを新たにしております。

山本和利

2009年3月25日水曜日

ブログ『地域こそが最先端!!』開設のお知らせ

はじめまして。
当ブログの管理者です。
当講座の取り組みについて皆様にお知らせするためにブログを始めました。
医療関係者の方もそうでない方にも、幅広く情報をお伝えできればと思っています。
よろしくお願いいたします。