札幌医科大学 地域医療総合医学講座

自分の写真
地域医療総合医学講座のブログです。 「地域こそが最先端!!」をキーワードに北海道の地域医療と医学教育を柱に日々取り組んでいます。

2009年7月3日金曜日

冒険

同じ道を毎日職場と家を往復する日々が続く。出張で東京や大阪に行った時、いつもの会合場所に向かう時たまに別の道を通ってみると違った景色ばかりで方向を見失ない一瞬不安に駆られ戸惑うことがある。教育理論では驚きを振り返ることが自己向上につながるとされており、旅の効用もそのようなところにあるのかもしれない。

娘が大学卒業後、写真専門学校に入学した。今授業の一環としてアジア諸国を半年かけて写真を撮る旅を続けている。そのブログを読むと、なかなか面白い。その一部を引用しよう。

 

最近日本語が恋しくなって、バンコクの紀伊国屋書店で文庫本を買った。その一つ、上野千鶴子さんの旅に関するエッセイの中にあった、「情は人のためならず」という一編に深くうなずくことになる出来事が、トラートで起きた。「他人にしてあげた親切は、廻り廻っていずれ自分のもとに返ってくる」というこのことわざが、旅をしていると身にしみる、という内容だった。いや、正確に言えば、「他人がしてくれた親切は、廻り廻って他の誰かに返すものなんだ」ということだ。少し長くなるけれど、こんな出来事だった。

トラートへの旅は、バンコクにスーツケースを預けて、カメラと小さなバックパック一つで身軽に出かけたたった二泊の弾丸旅行。宿はトラートにとったけれど、目的はさらに90キロほど離れたカンボジア国境のある海沿いのハートレークという小さな小さな町。移動には車で1時間以上かかる。たった二泊三日で何ができるんだ、と思いながら組んだスケジュールだったけれど、不思議なもので、短い時間なりに出会いはいつも向こうからやってくる。美容室の家族や、材木の貿易をしている会社の御一行様と知り合い、食事や飲み物、トラートまでの帰りの足まで提供していただいた。言葉は、まったく通じない。通じた英語は、Yes/No, thank you, bye-bye,TOYOTAだけだった。どうやって話していたかというと、
彼らがよく使う方法は、英語が話せる知り合いに電話をかけ、通訳をしてもらうというもの。ジェスチャーで通じなくなると、どこかへ電話をかけ、タイ語で話した後、私に渡してくる。出ると、相手は名乗ることもなくいきなりブロークンな英語で''He said..."とか "She ask you..."とか言って教えてくれる。ベトナムでもよくそうされたけど、あくまでもタクシーの運転手とか、宿のおばさんとか、仕事上必要なことを私から聞き出すためにそうしていたのであって、日常会話レベルでこうも頻繁に電話を渡されるのは初めてだ。手間もお金もかかるのに、彼らのコミュニケーション意欲はすごい。そして5分おきにかかってくる電話に嫌な顔(は見えないから、声か)一つせずに通訳してくれる名も知らぬお友達のやさしさと根気強さに感心する。そんな町で楽しく過ごした二日目の夜、貿易商の33歳のコーさんとその仲間たちにトラートまで送ってもらい、いざ別れという時。メモ帳に連絡先を書いてもらおうと思ってポケットを探るが、ない!かばんの中身を全部出してみても、車のシートの下を見てみても、やっぱりない。ハートレークで落としたんだ。さっきまでの楽しい気分が一気に消えていく。旅で出会った、何人の連絡先が書いてあっただろう?金門で夕食をごちそうになり、写真を送る約束をしていた家族のメールアドレスも、ランソンでナーに書いてもらったサバイバルベトナム語も、タイニンで学生の生活について教えてくれたことを書き留めたメモも、プノンペンで「何か困ったことがあったらいつでも連絡して」といってくれた青年ユーホンの電話番号も、全部全部あの小さなノートの中だったのに!いつでも連絡出来ると思っていた人達との唯一の連絡手段が、こんなに脆いものだったって、なんでもっと早くに気付かなかったのか。ケータイをなくした女子高生の気分って、こんな感じなのだろうか。例の電話通訳に事情を話すと、なんと、今走って来たばかりの90キロ先のハートレークまで戻ってくれるという。しかし時間はもう遅い。真っ暗で探しようがないだろう。相談して、翌朝、バンコク行きのバスに乗る前の早朝に、もう一度ハートレークに連れて行ってくれることになった。翌朝、5時半にコーさんの車で迎えが来る。一生懸命タイ語で私を励ましながら、ご機嫌顔で90キロの道のりを飛ばす。ハートレークでは前日に見かけた顔ぶれがぞろり。コーさんが町中の人に事情を話し、手分けしての大捜索が始まった。心当たりをくまなく探して一時間、結局メモ帳は出てこなかった。もう、十分だった。探してくれた町中の人にお礼を言って、帰ることにした。バンコク行きのバスの出発まで時間がないことを通訳を通じて伝えると、コーさんは宿に着くなりパッキングを手伝ってくれた上、まだ払っていなかった二泊目の宿代をいつのまにか支払い、さらにはバスターミナルでバンコク行きの切符まで買ってくれた。宿代とバス代はどうしても受け取ってくれなかった。早朝から往復3時間近い道のりを、知り合ったばかりの言葉も通じない外国人のメモ帳ひとつのために車を走らせてくれたうえに、ここまでしてくれるなんて!コップンカー。私が言えるタイ語の感謝の表現は、それだけ。
あまりに乏しくて、もどかしかった。このお礼を、どうしたらできるんだろう?「日本に来ることがあったら、絶対に連絡してね、何でもするから」中国に住んでいたときも、この旅が始まってからも、親切にしてくれた人と別れるたびに何度か口にしたこのセリフ、本当は、実現しないってこと、お互いわかってるんだ。こうして世界中を自由に飛び回れる私のような立場が、どれだけ特殊かということ、自覚しているから。でも、言わずにはいられない。今度は私の番であるということ。それはいつか出会う見知らぬ誰かに廻っていくんだ。その誰かに「どうしてこんなに親切にしてくれるの?」と聞かれたら、「他の人が私にそうしてくれたから」と答えよう。それでいいんだ。

娘のブログを読んで元気をもらった。さて、私のことである。

現在、3か所の医療機関で研修医を月に1回指導している。その中に北海道が好きというだけで九州の大学を卒業後、単身道内の決して都会とは言えない病院の研修プログラムに飛び込んでくれた青年がいる。指導医が少なく指導医自身が自分の担当患者や外来診療で忙しく十分に指導が受けられない環境にある。しかしながら、そのことをポジティブにとらえている。受け持ちの患者について指導医の助言が少ない分、自由な裁量が大きいため試行錯誤しながら充実した日々を送っている。毎日が驚きの連続で、それを振り返ることによって進歩してゆくことが月1度の指導の中でも伝わってくる。初めての外来診療にしても一人目は緊張していてうまくいかなかったが、ポイントを示して二人目の患者になるとうまくできるようになっている。画像診断、検査データの解釈、治療の選択など、まだ医師になって3カ月とは思えないほどしっかりできている。

私の研修もこのような独学に近いものであった。このような若者が全国にたくさんいるはずである。彼らが燃え尽きないように、サポートしてゆきたい。冒険心を持ったすばらしい若者に出会うと、私も少し冒険をしなければと気持ちを新たにするのである。

山本和利