画を観に行ってきました。
観てきたのは笑福亭鶴瓶主演の「ディア・ドクター」。
医学教育学会のあとに観た、というところが、また感慨深いものになりましたね。
「良き医療人」って何?「地域(僻地)医療」って何?というところから始まり、さ
らには主人公の伊野先生と自分が重なり合って、いろいろ考えてしまいました。
私も、たまたま大学にいたら「教官」になってしまったんですねぇ・・・。
う〜ん、共感・・・。
もりさき
札幌医科大学地域医療総合医学講座のブログ
観てきたのは笑福亭鶴瓶主演の「ディア・ドクター」。
医学教育学会のあとに観た、というところが、また感慨深いものになりましたね。
「良き医療人」って何?「地域(僻地)医療」って何?というところから始まり、さ
らには主人公の伊野先生と自分が重なり合って、いろいろ考えてしまいました。
私も、たまたま大学にいたら「教官」になってしまったんですねぇ・・・。
う〜ん、共感・・・。
もりさき
学会では本当に様々な内容が発表されており、いろいろな取り組みをしていること
に感心したり、驚いたり、刺激を受けてきました。「医学教育」は大学内では(臨
床や基礎研究に比べると)かなり地味なんですが、やはり医学教育は大事な領域だ
と改めて思いました。
もりさき
1)Problem-focused やneed-based approach にならないように! 2)resources and capacities 及びpartnershipをキーワードに!
もりさき
O・ヘンリーの書いたものに「20年後」という短篇がある。私にとって今から20年前というと1989年である。学生時代にはジョージ・オーウェルの「1984年」を読んで彼の予想するような管理社会になったらどうしょうと思っていたので、1984年という年はずーと意識から離れなかった。これに関連した話題になるが、私の卒業した自治医科大学は全寮制であり、そこで私は6年間過ごした。設立数年後に寮の風紀が乱れたため(?)上級生が下級生の面倒をみる制度を創設しようという案が出されて誰の反対もなく制定された。その名前が「ビッグ・ブラザー・システム」というのであった。ビッグ・ブラザーとは、「1984年」に登場するヨシフ・スターリンを想像させる管理社会の指導者である。体制批判に目覚めた主人公は密告され、拘束・拷問の末に銃殺されるという結末を迎える管理社会を皮肉った空想小説である。ジョージ・オーウェルの「1984年」を読んだことがある人なら、寮の指導制度に絶対こんな名前は付けないだろう。これを提案したのが英語の教師であったことと医学部教官が誰も反対しないということは、彼らの誰一人として医学書以外は読んでいないのであろうと思い、大変失望したことを今でも鮮明に思い出す。
さて、「20年後」である。友人二人がある場所で20年後に再会を誓う。警察官となった男が再会したのは指名手配された友人であったという話である。小説にするには10年前でも30年前でも駄目だとある批評家が論じていた。私の場合10年前は、札幌医科大学地域医療総合医学講座が設立され赴任した年である。そして20年前は、北京で天安門事件が起こり、ベルリンの壁が崩れ、昭和天皇が崩御した年である。世界的には東西冷戦構造が崩壊し米国一国主義がもて囃され、日本にとっては敗戦前の教育を受けた指導者たちが表舞台から去っていった時期と一致する。私にとっては地域医療従事後の再研修を受けた自治医科大学大宮医療センターが開院した年である。20年前に出会った同窓生は今どうしているのだろうか。そんな思いに耽っていた矢先にたまたま、九州で地域医療に邁進している後輩から20年ぶりに会いたいという連絡が入った。あの頃の情熱を語り明かしたい。
過去の20年間は懐かしく振り返ることができる。しかし、これから20年後がどのようになるのか想像もできない。札幌医科大学地域医療総合医学講座は設立10年が経過した。私が任期を終える設立20年目はどうなっているのだろうか。中間の10年目にしてあえて問題点をあげるとすると入局する若者が少なく金属疲労を起こしているという点だろうか。患者さんの訴えを区別せずに診療するという外来・入院は中年医師だけでは体力が持たなくなってきている。しかし、総合診療の原点は、どんなに大変であっても「患者さんの訴えを区別せずに診療する」ということだと私は思う。設立20年目を想像すると不安もあるが、私自身は札幌医科大学の総合診療科がある限り一人になっても原点を見失ってはならないと、任期の中間地点に立って気持ちを新たにしている。
山本和利
昨日7月13日(月)18時から江別市立病院で行われた「感染症ケースカンファレンス」に行ってきました! 江別市立病院総合内科の濱口先生がロンドンにいるときお世話になった縁で、来日されていたロンドン大学衛生熱帯医学大学院校教授 Robin Bailey先生を江別へお招きし感染症の教育カンファレンスを行ったというわけです。
Bailey先生からは「咳嗽、胸膜痛、体重減少、胸部異常影で紹介されたソマリア出身の19歳女性」、「1週間の発熱・悪寒、悪心・嘔吐、腹痛がある63歳の主婦」の2例、江別市立病院総合内科の岸野先生からは「発熱と共通を主訴に受診した32歳男性」が提示され、カンファレンスを行いました。
お会いする前は「ロンドン大学教授って、どんなに偉い先生なんだ!?」と思っていましたが、直接お会いしたらとても優しく気さくな先生で安心しました。ただ、カンファレンスが熱を帯びてくると早口のイギリス英語がより加速し、元々英語が得意でない私は「う〜、付いていけないぞ・・・」状態に。やっぱり英語はできた方が楽しいなぁ、と改めて思ったのでした。
Bailey先生、遠いところ北海道までお越し頂きありがとうございました。準備した濱口先生、岸野先生はじめ江別市立病院の皆さん、お疲れ様でした。 もりさき
2009.7.11-12に行われたサマーキャンプ in 幌加内2009でのphotovoiceの1例です。photovoiceはWangらによって提唱された参加型アクションリサーチアプローチです。一定のテーマで写真を撮影し、その写真に「ボイス」をつけ、グループ討議することによって課題を共有化するもので、今回のphotovoiceは、札幌医科大学1.2年目の医学生からみた幌加内の地域をテーマにしています。
同じ道を毎日職場と家を往復する日々が続く。出張で東京や大阪に行った時、いつもの会合場所に向かう時たまに別の道を通ってみると違った景色ばかりで方向を見失ない一瞬不安に駆られ戸惑うことがある。教育理論では驚きを振り返ることが自己向上につながるとされており、旅の効用もそのようなところにあるのかもしれない。
娘が大学卒業後、写真専門学校に入学した。今授業の一環としてアジア諸国を半年かけて写真を撮る旅を続けている。そのブログを読むと、なかなか面白い。その一部を引用しよう。
最近日本語が恋しくなって、バンコクの紀伊国屋書店で文庫本を買った。その一つ、上野千鶴子さんの旅に関するエッセイの中にあった、「情は人のためならず」という一編に深くうなずくことになる出来事が、トラートで起きた。「他人にしてあげた親切は、廻り廻っていずれ自分のもとに返ってくる」というこのことわざが、旅をしていると身にしみる、という内容だった。いや、正確に言えば、「他人がしてくれた親切は、廻り廻って他の誰かに返すものなんだ」ということだ。少し長くなるけれど、こんな出来事だった。
トラートへの旅は、バンコクにスーツケースを預けて、カメラと小さなバックパック一つで身軽に出かけたたった二泊の弾丸旅行。宿はトラートにとったけれど、目的はさらに90キロほど離れたカンボジア国境のある海沿いのハートレークという小さな小さな町。移動には車で1時間以上かかる。たった二泊三日で何ができるんだ、と思いながら組んだスケジュールだったけれど、不思議なもので、短い時間なりに出会いはいつも向こうからやってくる。美容室の家族や、材木の貿易をしている会社の御一行様と知り合い、食事や飲み物、トラートまでの帰りの足まで提供していただいた。言葉は、まったく通じない。通じた英語は、Yes/No, thank you, bye-bye,TOYOTAだけだった。どうやって話していたかというと、
彼らがよく使う方法は、英語が話せる知り合いに電話をかけ、通訳をしてもらうというもの。ジェスチャーで通じなくなると、どこかへ電話をかけ、タイ語で話した後、私に渡してくる。出ると、相手は名乗ることもなくいきなりブロークンな英語で''He said..."とか "She ask you..."とか言って教えてくれる。ベトナムでもよくそうされたけど、あくまでもタクシーの運転手とか、宿のおばさんとか、仕事上必要なことを私から聞き出すためにそうしていたのであって、日常会話レベルでこうも頻繁に電話を渡されるのは初めてだ。手間もお金もかかるのに、彼らのコミュニケーション意欲はすごい。そして5分おきにかかってくる電話に嫌な顔(は見えないから、声か)一つせずに通訳してくれる名も知らぬお友達のやさしさと根気強さに感心する。そんな町で楽しく過ごした二日目の夜、貿易商の33歳のコーさんとその仲間たちにトラートまで送ってもらい、いざ別れという時。メモ帳に連絡先を書いてもらおうと思ってポケットを探るが、ない!かばんの中身を全部出してみても、車のシートの下を見てみても、やっぱりない。ハートレークで落としたんだ。さっきまでの楽しい気分が一気に消えていく。旅で出会った、何人の連絡先が書いてあっただろう?金門で夕食をごちそうになり、写真を送る約束をしていた家族のメールアドレスも、ランソンでナーに書いてもらったサバイバルベトナム語も、タイニンで学生の生活について教えてくれたことを書き留めたメモも、プノンペンで「何か困ったことがあったらいつでも連絡して」といってくれた青年ユーホンの電話番号も、全部全部あの小さなノートの中だったのに!いつでも連絡出来ると思っていた人達との唯一の連絡手段が、こんなに脆いものだったって、なんでもっと早くに気付かなかったのか。ケータイをなくした女子高生の気分って、こんな感じなのだろうか。例の電話通訳に事情を話すと、なんと、今走って来たばかりの90キロ先のハートレークまで戻ってくれるという。しかし時間はもう遅い。真っ暗で探しようがないだろう。相談して、翌朝、バンコク行きのバスに乗る前の早朝に、もう一度ハートレークに連れて行ってくれることになった。翌朝、5時半にコーさんの車で迎えが来る。一生懸命タイ語で私を励ましながら、ご機嫌顔で90キロの道のりを飛ばす。ハートレークでは前日に見かけた顔ぶれがぞろり。コーさんが町中の人に事情を話し、手分けしての大捜索が始まった。心当たりをくまなく探して一時間、結局メモ帳は出てこなかった。もう、十分だった。探してくれた町中の人にお礼を言って、帰ることにした。バンコク行きのバスの出発まで時間がないことを通訳を通じて伝えると、コーさんは宿に着くなりパッキングを手伝ってくれた上、まだ払っていなかった二泊目の宿代をいつのまにか支払い、さらにはバスターミナルでバンコク行きの切符まで買ってくれた。宿代とバス代はどうしても受け取ってくれなかった。早朝から往復3時間近い道のりを、知り合ったばかりの言葉も通じない外国人のメモ帳ひとつのために車を走らせてくれたうえに、ここまでしてくれるなんて…!コップンカー。私が言えるタイ語の感謝の表現は、それだけ。
あまりに乏しくて、もどかしかった。このお礼を、どうしたらできるんだろう?「日本に来ることがあったら、絶対に連絡してね、何でもするから」中国に住んでいたときも、この旅が始まってからも、親切にしてくれた人と別れるたびに何度か口にしたこのセリフ、本当は、実現しないってこと、お互いわかってるんだ。こうして世界中を自由に飛び回れる私のような立場が、どれだけ特殊かということ、自覚しているから。でも、言わずにはいられない。今度は私の番であるということ。それはいつか出会う見知らぬ誰かに廻っていくんだ。その誰かに「どうしてこんなに親切にしてくれるの?」と聞かれたら、「他の人が私にそうしてくれたから」と答えよう。それでいいんだ。
娘のブログを読んで元気をもらった。さて、私のことである。
現在、3か所の医療機関で研修医を月に1回指導している。その中に北海道が好きというだけで九州の大学を卒業後、単身道内の決して都会とは言えない病院の研修プログラムに飛び込んでくれた青年がいる。指導医が少なく指導医自身が自分の担当患者や外来診療で忙しく十分に指導が受けられない環境にある。しかしながら、そのことをポジティブにとらえている。受け持ちの患者について指導医の助言が少ない分、自由な裁量が大きいため試行錯誤しながら充実した日々を送っている。毎日が驚きの連続で、それを振り返ることによって進歩してゆくことが月1度の指導の中でも伝わってくる。初めての外来診療にしても一人目は緊張していてうまくいかなかったが、ポイントを示して二人目の患者になるとうまくできるようになっている。画像診断、検査データの解釈、治療の選択など、まだ医師になって3カ月とは思えないほどしっかりできている。
私の研修もこのような独学に近いものであった。このような若者が全国にたくさんいるはずである。彼らが燃え尽きないように、サポートしてゆきたい。冒険心を持ったすばらしい若者に出会うと、私も少し冒険をしなければと気持ちを新たにするのである。
山本和利