札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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2011年9月10日土曜日

ふしぎなキリスト教

『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎、大澤真幸著、講談社、2011年)を読んでみた。

著者は2名の社会学教授。本書は、キリスト教を踏まえないと、ヨーロッパ近現代思想の本当のところはわからない、まず勉強すべきはキリスト教である、という考えから執筆されている。二人ともイエスは実在したという前提で語っている。

キリスト教は二段ロケットのような構造になっている。ユダヤ教があってキリスト教が出てきた。ふたつの宗教の関係は、ほとんど同じであるが、イエス・キリストがいるかどうかの違いがある。ユダヤ人にとって一番危険なのは、神様自身である。「厳密ルール主義」である。イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。キリスト教はイエスという存在がいることによって、ユダヤ教・イスラム教よりも「ふしぎな」宗教になっているというのが本書の力点でもある。

一神教の神が何を考えているかは、預言者に教えてもらうしかないようだ。預言者は一神教にしか存在しない。神の声を聞くのが預言者。隔絶した神を絶えず人間に関係づけるため。神を信じるのは、安全保障のためである。福音書はイエスについて証言する書物であるが、キリスト教が成立したにはパウロの書簡によってである。

キリスト教を考える上で、「神」と「キリスト」と「精霊」の3つの関係をはっきりさせなければならない。三位一体説。イエスの死後、もう預言者が現れることはない。人間と神との唯一の連絡手段が精霊である。精霊は、ネットワークや相互感応みたいな作用であるが、精霊の作用は垂直方向である。一神教の特徴は、「人間のもの」と「神のもの」を厳格に区別する。「人間のもの」に権威を認めない。「人間のもの」かどうかを解釈するかを公会議である(これまでに6回開催されている)。公会議の結果がなぜ重んじられるのか。それは公会議には精霊が働いているからだそうだ。

一神教の神様の歴史的な起源は、軍事的に一番強い民族や部族や共同体によって進行されていた神であろう。一神教は神の視点からこの世界を視ることである。究極の原因は神であり、責任者である。

神が人格的な存在だから対話が成り立つ。「神様、人間はなぜこんな苦しみを味わうのですか?」と。神との不断のコミュニケーションを「祈り」という(しかし、神は答えないので一種ので、ある意味ディスコミュニケーションであるが)。

イスラム教の祈りは外から見えるが、キリスト教のそれは見えない。悩んでいくら考えても答えは得られない。残る考え方は「試練」だということしかない。試験とは、現在を将来の理想的な状態への過渡的なプロセスであると受け止め、言葉で認識し、理性で理解し、それを引き受けて生きることである。信仰とは、そういう態度を意味する。

人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。そもそも原罪があるので理屈から言って神との契約を守れない。そうなると神に救ってもらえない。では救われる者はだれか。イエスを神の子、救い主だと受け入れた人のみが特別に赦される、ということらしい。

次に誰もが抱く疑問。「全知全能の神が創った世界になぜ悪があるのか?」世界が不完全なのは楽園ではないからであり、人間に与えられた罰だからである。このへんについては、私自身よく理解していないので、うまく説明できない。この問題への回答は様々であり、何世紀に亘り関係者が話し合い、結果として解釈の違いから様々な派に分かれるようになってしまった。


イエスとは何者か?「神を冒涜した罪」で処刑された。「神の子」とは?イエスは完全な人間であって、しかも、完全な神の子である」という結論になった。

聖書に記載された不可解なたとえ話について少なからぬ紙面が割かれている。

キリスト教を信仰しながら、西洋がなぜ自然科学を発展させたか。キリスト教と資本主義がどのようにしてつながったか。イスラム教・ユダヤ教で禁止されている利子をなぜキリスト教は解禁できたのか。等々が解説されており、興味深い。

久しぶりに図書館で借りずに購入した本である。読み終わったときには、少しわかった気になったが、しばらくすると忘れそうである。対談形式なので、読みやすくわかりやすい。本ブログで省略した第3部「いかに「西洋」をつくったか、はどの専門分野の者にも読む価値があると思われる。15万部売れているそうだ。是非、一読を!(山本和利)