札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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2011年6月10日金曜日

1年生 医学史講義 その5・6

昨日と本日1年生に医学史の講義を行った。
来週は札幌医科大学の学校祭のため講義がお休みとなるため、変則的に木曜日と金曜日の連続の講義となった。

6月9日木曜日はフロイトと野口英世であった。
奇妙な組み合わせだが、本来はフロイトと森田正馬の組み合わせであったのが、発表の班の都合で変更となったためだ。


フロイトは意識と無意識を研究し、器質的異常が認められる統合失調症ではなくヒステリーの治療・研究を行った。
無意識の例として、「鼻歌が自然にでてきたとき、どんな歌を歌うかは無意識が決めている」「朝起きたとき、しらないうちに目覚ましが止まっている」ことなどをあげていた。なるほど。

また、夢についてフロイトは、通常自分ではどうにもならない欲求は、できる範囲で代償し、「無意識」に押し込められることはないが、それが無意識に押し込められ、大きくなるとそれが夢となって出現すると考えた。その夢は歪曲され、修飾されて本来の欲求とは違う形で現れることがあるので、夢から本人の押さえ込まれた欲求を調べるにはその夢を解釈しなければならない。

また、人間には本来「異性の親を愛してしまう」エディプスコンプレックスというものが存在し、通常は成長するに従って解消されていくが、それが解消されないと、マザーコンプレックスやファザーコンプレックスとなっていく。

また性的な欲求や破壊欲求なども本質的に人間に存在し、それが顕在化すると、ロリコンやSMなどとなることがある。らしい。

フロイトは高校の倫理の授業で習う学生が多いが、フロイト=無意識という受験知識のみしかないが、本来はこういうことなんだろう。しかし、ただでさえ精神科領域の概念は難しいところへ、外国語の訳であることなどから、その理論は難解で非常に難しい。そんな中で分かりやすいたとえを用いてよく頑張ったと思う。


2つ目のグループは野口英世であった。
Google検索件数第1位ということで、調べる情報には事欠かないテーマであったが、逆にどの点に絞ってストーリーを組み立てるかということについては腕の見せ所である。

冒頭、学生に質問をふっている発表者がいたが、講義後の学生の感想によると物まねをしているようであった。仲間内では受けるんだろうが、教員である松浦にはよくわからなかった。ジェネレーションギャップなのであろうか?

野口英世は黄熱病の研究で有名だが、実は、梅毒の研究でも有名なのである。結構知らない人が多いようだ。
発表では梅毒の臨床経過について、写真付きで解説していた。1期(3週間)2期(3か月)3期(3年)4期(10年)と国試的な対策まで披露していた。う~ん、確かにいまからこの授業でいわれれば3ー3ー3ー10は忘れないかもしれない。

野口英世は、結局、黄熱病の原因がウイルスであることは突き止められなかったし、自説の中で主張した病原体は実はワイル病の病原体であった。そのことを他の学者から指摘された際には、自らの間違いをきちんと認める潔さも持っていたようだ。

ここまで、野口英世の業績を中心に発表していたが、その後の発表は、野口英世の裏話的な発表であった。金遣いが荒いことであったり、結婚詐欺的な振る舞いであったり、もとは野口清作という名前であったが、その名前を改名するに至る経緯などを紹介していた。意外なことが多く、興味を惹かれる内容であった。一般に思い描く「お札の肖像画にまでなった人」のイメージからは程遠い。


発表後の質問・感想の中で、「スライドの背景と文字のコントラストが悪くて、強調して色を変えたところが逆にかえって見難くなっている」という意見が出た。

そう! そうなんだよ! 
「音情報」としてのプレゼンテーションは良くても、「文字情報」としてのプレゼンテーションが出来ていないと効果半減となってしまうんだなぁ。
そういったところにも目が行くようになってきているんだねぇ。医学史の講義の最初に「プレゼンテーションのコツ」と題して、ほんと「基本のキ」を教えたんだけれども、他人の発表を見ながら、徐々に基本→応用と技術が身についてきてますね。こうした参加型の講義の効果を改めて実感した。



6月10日金曜日の臨時の医学史の講義は
北里柴三郎と森田正馬であった。


今日のファシリテーションは福山雅治の物まねから始まった。ちょっとスベっているところもあるが、まぁ、つかみはこれでいいだろう。

北里柴三郎は、親にいわれて医学部を目指し、東京大学医学部に入学した。幼少期から医者を目指していたわけではないらしい。それなのに、ドイツに留学して当時細菌学の権威であるコッホに師事する。中国に出張した際にペスト菌を発見するなど、非常に優秀な研究者であった。
日本医学史に様々な功績を残しているが、その代表的なものは慶応大学医学部を創設したこと。


北里柴三郎は当時ある程度存在が予想されていた破傷風菌の研究を行った。当時破傷風は発症すれば30%は死亡する恐ろしい病気であった。破傷風の培養の工夫をして。寒天の上からではなく、中に直接植え付けたら寒天の中で繁殖していた。つまり、破傷風菌は嫌気性菌であることを発見したのであった。

培養に成功したため、その培養によって得られた破傷風菌を使い治療の研究も行った。一度破傷風菌を植え付けたマウスの中で、運良く生き残ったマウスに再度破傷風菌を植え付けてもそれらのマウスは発症しないことがわかった。これはマウスの体内で抗体ができていると考えられていた。この抗体を利用した血清療法を確立し、この治療法は今でも使われている治療方法である。

北里柴三郎はノーベル賞を受賞し損なった。当時の日本への差別意識があったといわれている。へぇ、、、、


最後に、プレゼンテーションを3つにまとめてそこから得られる教訓を紹介していた。

1)予防医学の大切さ
2)研究だけをやっていたのではダメだ。どうやって世の中に役立てるのかを考えろ。社会に貢献を
3)勉学に励め!

以上でプレゼンテーションが終了した。

今回のプレゼンテーションはかなりレベルの高いものであった。
この班は、発表者を一人にして、30分の発表を行ったのであるが、発表者の彼は、全国ディベート大会に何年間も連続出場しているとのことであった。さすがと思わせるプレゼンテーションであった。

ディベートによって得られる技術というよりは、人前で発表することに慣れていることから得られた技術なのだろう。声のトーンや、抑揚・間の取り方など、「相手に自分の考えを伝える」ための小技がすでに身に染み混んでいるといった感じであった。



2つ目のグループは森田正馬(もりたまさたけ)であった。

森田正馬は高知県出身で、東京大学医学部卒業。当時入局する人が極端に少ない精神科に進み、後に森田療法の創始者となる人物である。彼は、幼少期の頃からパニック発作・神経衰弱・脚気など発症し、中学高校と卒業までにかなりの時間を要した。そうした経験が、森田療法を生み出したのである。

その森田療法の核となる考え方は「ありのまま+恐怖突入」
老子の思想(無為自然)に似ているとのことであった。

これは、入院を基本とした神経症治療方法であるが、現在は外来通院もあるのだそうだ。

不安・神経症・軽度鬱・パニック発作などの治療法で、不安や恐怖を「あってはならないもの」として排除しようと思うのではなく、それらをあるがままに受け入れて治療していくのだそうだ。森田正馬には「あるがまま」という言葉が常に付いて回るようだ。

我褥期 自分をあるがままに受け入れる
軽作業期 庭の植物を育てたりする。
作業期 より日常生活に近い作業を行う
社会復帰期 外出などを繰り返しより日常に近づけていく

と具体的に治療内容を紹介していた。現在は慈恵医大病院森田療法センターで行われているようだ。

その後、幼少期に両親の離婚を経験し、学生時代にいじめにあい、精神科通院歴のある20才の男性の神経症の患者さんが来院したとの設定でどのように対応するかを会場に意見を求めていた。

医学部1年生ということで症例呈示の仕方としてはやや稚拙だが、その答えとして学生からは「話をよく聞く」「もっと時間をかけて対応する」などの意見が出ていた。

その後、ファシリテーション担当の班からは、「この問題についてもっと掘り下げて意見を聞いてみたいと思います」とテーマを決めて、意見交換をしていた。「すぐに薬を出して終診」とする医師に対して疑問を投げかけていた。

ファシリテーションのやり方としては、一工夫あってよかったと思う。また、その過程で自分の意見をちゃんと発表していたのもこれまではなかなか行われていないやり方であった。



最後に松浦から、
「こうした若い患者はおそらく、頭がいたい・お腹の調子がわるいといった症状を訴えてみんなの前に現れる。その時に決して、過去のイジメのことや、両親の離婚のことなどを自分から語ってくるようなことは絶対にないし、カルテにも書かれていない。その患者の背景について「聞ける」かどうかにかかっている。ともすれば「繰り返す腹痛」や「検査で異常のない頭痛」と片付けてしまいがちなことでも、こうした背景に配慮出来れば、森田療法に限らなくても、じっくりと話を聞き、それまでの患者の辛い人生に想いを寄せることが出来れば、おそらく患者の苦痛は半減するだろう。それが、病気を診て患者も見ることにつながる。今日の皆さんの「患者の話をじっくり聞く」というその気持を今後も持ち続けて医師になってほしい」というメッセージを伝えて講義を終了した。


                             (助教 松浦武志)