札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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地域医療総合医学講座のブログです。 「地域こそが最先端!!」をキーワードに北海道の地域医療と医学教育を柱に日々取り組んでいます。

2013年2月28日木曜日

患者の語り


228日、NBMの授業の一環として患者さんお二人から患者体験を語っていただいた。

前説として、山本和利が医療人類学の概念、disease(疾患), illness(病い), sickness(病気と社会的に認めてもらうこと), sick role(病者役割), medicalization(医療化),stigma(烙印),explanatory model(病気の説明モデル、解釈モデル)について解説をした。このような概念を念頭に置きながら、患者さんとの共通の基盤を構築することが重要であることを強調した。

 

消化器癌を経験したAさん。そのときの経験した辛さや出会った暖かい気持ちを紹介してくれた。

初期対応に問題があり診断がつくまでに10年間苦しんだBさん。冒頭、不定愁訴の患者が多い、ということを学生さんには知ってほしい、と訴えた。患者の言葉の中には、鍵となる言葉がある。それを見逃さないように。

小児喘息の持病を持っていた。その時代は、心が弱い、精神修養ができていないという風潮があった。そう言われて傷ついた。長い通学路、喘息の発作を悟られないように気をつかった。今すぐ治してもらえる手段がなかった。皆も我慢しているのだろうと思っていた。誰にも助けてもらえないという不安感がいつもあった。喘息の患者の不安は独特である。中学に入って喘息も落ち着き、気管支拡張薬を使うことが減ったが、ドキドキするのでマラソン大会には一度も出なかった。大学生になって夕焼けを見ていても青空を見ていても涙が出てくる自分に気づいた。鬱なのかなと思っていた。

24歳になって動悸がひどくなった。階段を登っても症状が改善しない。ドキドキして発汗が強かった。でも食欲があり一見元気のため、誰も取り合ってくれない。喘息が再度悪化した。処方されたβ刺激剤を内服するとドキドキして死にそうであった。心臓が壊れたのかと思って、恐怖感がひどかった。寝付きが悪く、目が見開いて目がランランとした状況であった。いつも腹ぺこ状態であった。食べても太らないので皆にうらやましがられた。早朝の脈拍が90/分。排便後140/分であった。洋服の上から心臓の拍動がわかった。親からも教師からも「怠け者」というレッテルを貼られていた。

あるとき過呼吸症候群で病院に救急搬送されたが、心が成熟していないと言われ、2時間放置された。

親戚にバセドウ病がいたので、バセドウ病ではないかとかかりつけ医に訊いてみた。首を触ってもらい、血液検査をしてもらった。コレステロールが低いといわれたが、「肩こり・ストレス」と診断され、ビタミン剤・睡眠薬を処方された。少しも治らないので奇病と思っていた。健診で心臓に雑音があると言われ、大学病院を受診したが、不整脈はあるが心臓に異常はなく、緊張するせいといわれた。その結果、自分を責めるようになった。そのうち空腹なのに飲み込めなくなり、ついに呂律が回らなくなった。ひとりでご飯を食べられなくなった。波に飲み込まれ海の底でおぼれているような感じであった。

ある日、地下鉄で動けなくなり蹲っていた。誰も助けてくれなかった。暑い日が続く夏、母親に大学病院に連れて行ってもらった。担当医師ははじめ甲状腺疾患を疑ったようだが、以前の開業医での話をしたら、気のせいということになった。あと受診するとしたら精神科と言われた。その頃、JALのジャンボジェットが墜落したニュースを聞いて恐怖にかられた。喘息が悪化し始めた。気管支拡張剤を上限まで使っても喘息が治らない。市中病院を受診し入院を勧められたが仕事の関係で断った。夜間救急では医師の指示通りの処置を受けると心臓がドキドキするので、いい加減に吸入をした。その場面を看護婦に見つかって仮病と言われた。その後たまたまよい医師に出会って甲状腺ホルモンとシンチ検査を受けた。そこではじめてバセドウ病と診断された。人間の証明ができたと思った。

米国で生活。薬がなくなり受診したら、南欧出身の医師に無視された。半年後に血液検査の異常の報告を受けた。現在、再発寛解を4回繰り返している。喘息は薬剤でうまくコントロールされている。10年間、診断がつかずに苦しんだ経験をユーモアを交えながら語られた。

学生さんからは、患者さんの想いを生で拝聴して、これまでの病気の話を教官から聞くのとは別の刺激・感動をうけたようだ。(山本和利)