札幌医科大学 地域医療総合医学講座

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地域医療総合医学講座のブログです。 「地域こそが最先端!!」をキーワードに北海道の地域医療と医学教育を柱に日々取り組んでいます。

2011年2月17日木曜日

患者の語り

2月17日、NBMの授業の一環として患者さん二名から患者体験を語っていただいた。

初期対応に問題があり診断がつくまでに10年間苦しんだAさん。冒頭、不定愁訴の患者が多い、ということを学生さんには知ってほしい、と訴えた。
小児喘息にかかった。心が弱い、精神修養ができていないと言われて傷ついた。長い通学路、喘息の発作を悟られないように気をつかった。中学に入って喘息は落ち着き、気管支拡張薬を使うことが減った。大学生になって夕焼けを見ていても青空を見ていても涙が出てくる自分に気づいた。鬱なのかなと思っていた。24歳になって動悸がひどくなった。階段を登っても症状が改善しない。食欲があり一見元気のため、誰も取り合ってくれない。喘息が再度悪化した。処方されたβ刺激剤を内服するとドキドキして死にそうであった。恐怖感がひどかった。寝付きが悪く、目が見開いて目がランランとした状況であった。いつも腹ぺこ状態であった。食べても食べても太らないので皆にうらやましがられた。早朝の脈拍が90/分。排便後120/分であった。親戚にバセドウ病がいたので、バセドウ病ではないかとかかりつけ医に訊いてみた。首を触ってもらい、血液検査をしてもらった。コレステロールが低いといわれたが、「肩こり・ストレス」と診断され、ビタミン剤を処方された。少しも治らないので奇病と思っていた。健診で心臓に雑音があると言われ、大学病院を受診したが、不整脈はあるが心臓に異常はなく、気のせいといわれた。その結果、自分を責めるようになった。そのうち飲み込めなくなり呂律が回らなくなった。ひとりでご飯を食べられなくなった。海の底でおぼれているような感じであった。ある日、地下鉄で動けなくなった。暑い日が続く夏、母親に大学病院に連れて行ってもらった。担当医師ははじめ甲状腺疾患を疑ったようだが、以前の開業医での話をしたら、気のせいということになった。あと受診するとしたら精神科と言われた。その頃、JALのジャンボジェットが墜落したニュースを聞いて恐怖にかられた。気管支拡張剤を上限まで使っても喘息が治らない。市中病院を受診し入院を勧められたが仕事の関係で断った。夜間救急では医師の指示通りの処置を受けると心臓がドキドキするので、いい加減に吸入をした。その場面を看護婦に見つかって仮病と言われた。その後たまたまよい医師に出会って甲状腺ホルモンとシンチ検査を受けた。そこではじめてバセドウ病と診断された。現在、再発寛解を4回繰り返している。喘息は薬剤でうまくコントロールされている。

不信と信頼の気持ちが揺れ動きながら闘病について語った70代女性のBさん。
幼少時、病弱で転地療法したところ病欠がなくなった。50歳代、食後に腹痛、嘔吐、下痢で受診。急性膵炎、慢性膵炎となる。この10年間、膵臓の病気で入退院を繰り返した。たまたま関西で受けた人間ドックで膵臓がんと診断された。地元の大学病院に入院し精査を受ける。医師が来ないまま検査の連続であった。毎日、隣のベッドにきていた医師に5日後にはじめて主治医として挨拶される。関西のときと同じ検査が続いた。その点をついたところ「医師自身が信頼している医師の行った検査所見が知りたいから」と言われた。40日後、粘液産生腫瘍と診断。説明した二人の医師の勧める治療法は全く違っていた(経過観察と即手術)。選択は患者任せであった。説明に納得できなかったので退院したが、薬や必要な書類がなかなかでなかった。意地悪をされているのではないかと疑った。関西の病院で8時間に及ぶ手術を受けた。病理検査は良性と判定された。時間が経つと症状が徐々に軽快してゆく(「日ぐすり」という考えも大事)。その後、胆管炎や急性膵炎の症状も起こし、CTで膵石を発見された。手術を勧められ、はじめは断っていたが、観念して手術を受けた。入院の前に外科担当医になかなか出会えない。そのときは不満と不信感が渦巻いたが、ベッドサイドで同じレベルの視線で語る医師に出会って信頼感が芽生えた。その医師の座右の銘は「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」。患者の気持ちは信頼と不信が背中合わせである。

学生さんには講演者のどちらかに宛てて感想文を書いてもらった。患者さんの想いが少しでも学生に伝わって欲しい。(山本和利)