『東大で世界文学を学ぶ』(辻原登著、集英社、2010年)を読んでみた。著者は多くの文学賞を受賞している作家である。本書は東大文学部で行った学生講義の記録である。
第一、二講義では、思ったことや自然について文章にして描写するまでに至った歴史的な側面が記述され、その貢献者としてロシアのゴーゴリと二葉亭四迷が取り上げられている。
第三講義の「舌の先まででかかった名前」は、講義の雰囲気がよく出ている。また提出された謎についての解説が参考になる。
第五、六、七講義で燃え尽きる小説と題して、『ドン・キホーテ』『ボヴァリー夫人』『白痴』の大筋を述べながら、すばらしさを解説している。『ドン・キホーテ』の全三巻を買っておきながら読んでいない私には大変参考になった。これが文学の原点(近代文学の嚆矢、神話のベールを剥ぐ)であると強調されているが・・・。『ドン・キホーテ』のすばらしさは、物語の中で物語を批判する点にあるそうだ。
第八講義では、ストーリーとプロットの違いを解説している(E・M・フォースターの論)。ストーリーは、時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの。プロットは、時間進行は保たれているが、二つの出来事の間に因果関係が影を落とす。さらに時間を変更させて、謎を含んだ因果関係を示すとレベルの高いプロットになるということである。ここで『悪魔の詩』が取り上げられている。セルバンテスは騎士道精神の背後にある聖書をからかった訳であるが、『悪魔の詩』を書いたラディシュ氏はコーランを愚弄したとして最高指導者ホメイニから宗教令ファトワー(死刑判決)が出された。ある文化背景の中にあっては、言語は冒涜の力を持つ。この出版に関わった者が既に40名以上死亡しており、日本語の翻訳者(五十嵐一氏)も暗殺され、犯人は未だにつかまっていないという。暗殺されたとき一主婦であった五十嵐夫人は、現在、学び直して看護短期大学の副学長になって身体障害者にしっかり向き合う活動をしているそうだ。
第九講義では、自作の『枯れ葉の中の青い炎』はどのようにして書かれたか、が語られている。世界文学とは関係ないが、ここが私には一番面白かった。他の読者もきっと『枯れ葉の中の青い炎』を手に取りたくなるだろう。
「この一冊で<世界文学>のすべてがわかる!」と帯に書かれているが、読むと益々わからなくなった。学ぶとは「自分自身が何も知らないということを自覚することである」と考えれば、著者の意図は達せられたのであろう。(山本和利)