5月10日、北海道大学医学部2年生を対象に「医療と社会」という講義を行った。
これは前沢政次元教授から依頼され数年前から行っているものである。
導入はいつもの如く、映画の一場面から入った。
問1:洗濯鋏を瞼に挟んでいる二人の少女の写真。さて、どうしてでしょう?
問2:小児悪性腫瘍がフランスの農村で増えているという話を聞いて、さて、あなたが医師ならどうしますか?
問3:家の前にある山のような堆積物の前に立つ少年。これは何でしょう?何をしているところでしょうか?
このような写真を提示して、学生に問いかけた。
意外と知らない人が多い。
その後、「井戸を掘る医者」中村哲先生の言葉を紹介した。「人生思うようにはならない」、大切なことは「人間として心意気」、必要とされていることをする「何かの巡り合わせ」でする。
開始30分後、「社会学からみた医療」の講義を始めた。映画「ダーウィンの悪夢」を例にして、それぞれが最善を目指した結果、「ミクロ合理性の総和は、マクロ非合理性に帰結する。」「個々にとってよいことの総和は、全体にとって悲惨にある。」と結論づけ、地域医療にも当てはまるのではないか?と学生に問いを投げかけた。
次に、「世界がもし100人の村だったら」(If the world were a village of 100 people)という本を紹介した。その一部は
「もしもあなたが 空爆や襲撃や地雷による殺戮や 武装集団のレイプや拉致に おびえていなければ そうではない20人より 恵まれています」。学生のかなりの者が既に読んでいた。
ここから、医療の話。
1961年 に White KLによって行われた「 1ヶ月間における16歳以上の住民健康調査」を紹介した。大学で治療を受けるのは1000名中1名である。
次に、「医療とは」何かを知ってもらうため、ウィリアム・オスラーの言葉を引用した。
「医療とはただの手仕事ではなくアートである。商売ではなく天職である。
すなわち、頭と心を等しく働かさねばならない天職である。
諸君の本来の仕事のうちで最も重要なのは水薬・粉薬を与えることではなく、強者よりも弱者へ、正しい者よりも悪しき者へ、賢い者より愚かな者へ感化を及ぼすことにある。信頼のおける相談相手、・・・
家庭医である諸君のもとへ、父親はその心配ごとを、
母親はその秘めた悲しみを、
娘はその悩みを、
息子はその愚行を携えてやってくるであろう。
諸君の仕事にゆうに三分の一は、専門書以外の範疇に入るものである。」
授業はまだまだ続く・・・。
授業を聞いている態度だけで判断すると、眠いのか聞いているのかわからない学生もいるように思えるのだが、学生さんの講義に関する感想文を読むと、皆がそれぞれ感じてくれているとことがあるとわかってうれしくなった。
2年生のときにこんなに素晴らしい感性を持った学生さんが、卒後に家庭医になる人数が少ないのはどうしてなのだろう?(教育の成果?)
問1の答え:
女工哀歌(エレジー)と映画の一場面である。「睡眠不足で瞼が落ちてこないようにするため」。中国の山間の農村に暮らす16歳のジャスミンは、家計を支えるために都会の工場に出稼ぎに出る。彼女の仕事は、欧米諸国へ輸出するジーンズ作りの「糸切り作業」。時給7円という低賃金だが、ほとんど休む間もない忙しさだ。一方、工場長のラム氏は、海外の顧客からコスト削減を迫られていた。きびしい条件の中、納期に間に合わせるために、徹夜の作業が続く。しかし給料の未払いが続き、工員たちの不満はつのっていった…。
問2の答え:
町長が「小学校の給食をすべてオーガニックにするという試み」をした。フランス南部のバルジャック村の約1年を追いかけた映画。ここに登場するのは、風光明媚な村で暮らすごく普通の人々ばかりだが、その一見のどかな風景とは裏腹に、土や水の汚染による病が彼らに静かに忍び寄る。だからこそ食の豊かさを自らの五感で学ぶ子どもらの笑顔が胸にしみる。
問3の答え:
「ゴミの山、まだ使えるゴミを拾って売る仕事をしている」。ドキュメンタリー作家四ノ宮浩監督が、自作の『忘れられた子供たち スカベンジャー』と『神の子たち』で取材したフィリピンのマニラにあるゴミの街"スモーキーマウンテン"を再訪。約20年前から見つめ続けた東洋最大のスラムと呼ばれる同地でかつて出会った人々の現在を追う。世界に厳然と存在する貧困について大きな問いを投げかける1本。
(山本和利)