『養老孟司の大言論 嫌いなことから、人は学ぶ』(養老孟司著、新潮社、2011年)を読んでみた。雑誌『考える人』に掲載された原稿を3冊に収録し、本書はその第2巻ということのようだ。第1巻と3巻は未読である。
「意識の博物学」の章での、冠詞について考察が興味深い。
感覚世界は「違う」という世界で、意識内部の世界は「同じ」という世界である。だから感覚世界のリンゴはthe appleであって、個物がすべて異なることを示す。意識内部のリンゴは「同じ」であって、それがan appleである。早い話、the appleはすべて「違う」リンゴ、an appleは要するに「同じ」リンゴである。助詞の「が」は不定冠詞機能であり、「は」は定冠詞機能である。なるほど、そんな気がする。
宗教と科学についての考察。博物学は「モノ」からの視点をとる。自然物を集め、観察し、分類し、解釈する。どんな学問も、最終的には「モノに落とす」。落とし先が徹底しているという意味で、宗教は博物学に似ている。どちらも森羅万象を扱う。ところが、宗教の落とし先はモノではなく、神様である。現代の科学はその中間にある。
現代人の思考・対応への批判。近代文明は、要するに「先を考えない」で進めて来た。
長期展望で考えなければいけないことを主張している。半分冗談であろうが、参議院では「50年より手前のことは考えてはいけない」とも提案している。
異端の人の発想は面白く、参考になる。(山本和利)